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終らない夏夜に溺れるヲタク達の鎮魂歌

 出会いは突然に起こりうる、それは思いもよらないベタな展開で訪れた。けれども、その出会いの女性は、決してベタな女性ではなかった。俺の範疇を超えることが大半だった。エロカワギャル、淫靡な女教諭、どうみても小学生にしか見えない高校生……様々なベタ展開があるけれど、まさかと、いわざるをえなかった。
 俗物的且つ犯罪的もしくは運命をよぎらす確信的な出会いは、こんな形だった。



 Ⅰ.小岩井鈴鹿
 いつものように、大学のキャンパスを歩いていた。それも、今年入学してから半年ほど毎日通っているコースだ。校舎の三階に最終授業の教室がある、そこからバイト先に向かう途中、非常階段の二階の踊り場で女性に遭遇する事になった。
 夏の始まり、八月に入ろうとしていた蒸し暑い夕方の出来事だった。
「痛い、容赦なく痛いぞ、そこ君」
「へ?」
 ファーストコンタクトは、ぐっすりお昼寝中の女性のどてっぱらを踏んでしまったことに始まる。
「へ? じゃないだろ、君。乙女の神聖不可侵的お腹を、あろうことか足蹴にするなど、犯罪的行為だと思わんか」
「思いませんよ、行っていいですか……」
 足元をみて階段を降りてなかったけど、まさかこんな非常階段の踊り場でお昼寝中だとは思わないだろう。しかも言いがかりのつけかたが恐ろしく怖いんですが、出来ることなら関わり合いになりたくないんですけれど。
「酷い、いたいけのない可憐な生娘の身体を痕《きず》物にしておいて、その言い草。世の女性を敵に回すことになるぞ、責任を取れ責任を」
 すっくとお腹を押さえて立ち上がった女性は、グレーのスーツ姿だった。袖を通さずサマーセータを羽織り、タイトなスカート。黒髪で二つ出しの三つ編みの眼鏡っ娘。しかし、そのソバカスには見覚えがあった。
「鈴鹿先生……何してんの? こんな所で」
「見たら解るだろう、こうして君に汚されて捨てられたようになっている、可哀相な姿をみれば」
 小岩井鈴鹿《すずか》先生。文系に属しているだけに、やたらと言い回しが可笑しい。
 普段の先生は物静かで、講義では必要以上お喋りをしないような人なのに、イメージがかなり崩れた。この気持ちよく変人っぷりを発揮する先生はなんだ。図書室で一人、アンニュイに弄ばれて読書に没頭する、存在感の薄いイメージだったのに、この変わりよう。何かあるのか?
「そうじゃなくて、何でこんな所で昼寝をかましているんですか? って――」
「丁度いい具合に陽が入ってきて、しかもいい具合に日陰が出来るんだ、陰干しには丁度いいだろう? 珈琲豆だって陰干しが旨いぞ」
「何を陰干しに?」
「いや、私が陰干しに……」
「先生、頭が痛くなってきたので、この辺りで満足デスカ」
「いやんいやん、責任取ってくれなくちゃ、や。帰っちゃ、ヤ、ダ」
 堪らん、変なのに絡まれた。
 これからバイトだってのに、えらい話が長くなりそうだ。早々に撤退したいところだが、自称生娘女教諭三つ編み眼鏡っ娘、推定二十五歳の鈴鹿先生は、隙を突いて非常階段を塞いだ。これじゃあ降りられん、侮り難し鈴鹿先生。
「まあまあ君、そんなあからさまに嫌な顔をしなさんな。責任を取れといったところで経済的に破綻している学生相手に結婚を強要しても仕方が無いだろう、ただ今から肯定的な交配に勤しもうと諭しているだけだ」
「スミマセン鈴鹿先生、肯定的な~とかいって、話しを強引に捻じ曲げるのは止めて下さい」
「そうか? そうだなぁ……」
 訝《いぶか》しげに鈴鹿先生は、腕を組み唸った。このどうみても中高生にしか見えない三つ編み眼鏡っ子は、どうあがいても俺を解放してくれないらしい。このままでは、バイトどころか今日は家に帰れないところまで足を踏み込んでいるのではないか? 最悪だ。
 ってか、何故俺? 俺をターゲットにする、恰好良くもなければ金がある訳でもない、ただのヲタなんだけどねぇ。
 なにやら悩んだ末、鈴鹿先生は眼を輝かせ、俺の肩を叩いた。上目で俺を覗き込むと、うにうにとサマーセータを脱ぎ出した。
「覚えてないのか? 先生のこと……ほら、よく君の家の庭で遊んだ……」
 輝いていた瞳はうるうると潤って真っ直ぐに俺へと視線を送り、俺の心を揺さぶってくる。おろおろとしている俺を他所に、鈴鹿先生はいそいそとブラウスのボタンを外し始めた。
「ちょ、鈴鹿先生。何やってんですか」
「私が急に引っ越すことになって、君は怒って石をぶつけたじゃないか、先生はよく覚えているぞ。私が小学生で君が幼稚園の時だ」
 はらりとブラウスは地面に落ち、紺色のブラが顔を出した。艶のある黒髪の三つ編みが、両肩を撫でていた。真っ白な肌の胸に覆うようにした紺色のブラが際立っている。ドキドキ、ズキュン。
「せ、先生。ちょっと待ってくださいよ。何のことっすか」
「これまで超絶に哀しかったんだぞ、やっと君に出逢えたんだ、これは神の御意向なのだよ。然るべき処置を取って、今晩は君と共に安らかなる眠りに就きつつ、快楽の都天竺に逝こうではないか」
「鈴鹿先生……俺、生まれて現在に至るまでマンション暮らしなんですけど……」
「この胸の谷間の痕《あざ》がみえないのか、酷い、この人は弩派手なエンジェルスマイルの中に超弩級の悪魔を飼っている。犯される……いや、むしろ犯してくれ。君に犯されるのは本望だ」
「おーい、先生……」
 完全に先生の眼が逝っちゃってる、これは酷い。しかも関わっていたら、この人のペースに巻き込まれてしまう。かなり危険な人だ。唖然として開いた口が塞がらない俺には気にも止めず、一方的な演説が続く。
「なんて健気で愛おしい鈴鹿先生二十五歳独身、彼氏募集中というよりも君募集中なんだ。実に潔い。さあ、思う存分君の迸《ほとばし》るエネルギィ体を私にぶつけてくれ。カモン」
「ホント勘弁して下さい、ぶつけたアザなんて無いじゃないですか。俺バイトありますから行きますよ」
「よく視《み》てくれ、胸の中心に小さな痣が残っているから……」
「はいはい、解りました。見りゃあいいんですね」
 ん、と鈴鹿先生は胸を突き出して、指でアザがあると言い張るところを差した。何故かネタを振っといて、鈴鹿先生は恥かしげに顔を背け、斜め下を眺めていた。スタイルとルックスのギャップと頬を赤らめる辺りが妙に艶かしい。
 仕方がないので、谷間のブラをひょいとあげ、中を覗いた。確かにアザがあった……
 しかし、真っ赤に腫れあがる引っ掻き傷があった。
「これって、先生――蚊に噛まれました?」
「――スケベ。何食わぬ顔をしながら、しっかりと乙女の純情を覗き見するなんて――」
「えー」愕然とした。振っといてそれかよぉ。
「民法第百二十八条五項に乙女の純情を盗んだ男子生徒は責任を取って、その乙女を嫁にするか自決するか、二者択一だと制定されているぞ」
 頭が割れるように痛い、もう俺は逃げるぞ。付き合ってられん。
「時間が押し迫ってきましたので、この辺でお開きということで、さらにいえば、鈴鹿先生自称二十五歳は、乙女というよりも人妻物ということで、無効っす」
「人妻とは失礼な、君の為に操を立てて純潔を守ってきたというのに、このマシュマロのような想い、届かず……」
 うな垂れる鈴鹿先生を後に、俺は三階に上がりそのまま校舎内の階段で逃げ出した。今日は凌いだとしても、明日からはどうなるんだろう。夏休みが目の前にあるが、それまで耐えれるかどうか。心境は複雑だった。



 Ⅱ.大輪田五十鈴
 案の定バイトには遅刻をした。自称乙女のポリスィに拘束されること三十分、移動準備時間三十分と、合計一時間の遅刻になっていた。居酒屋に勤める俺はバイト先の店長にこっぴどく叱られ、ペナルティとして営業時間終了後の掃除を一人でやる羽目になった。
「面倒くさいなぁ、なんでこんなことになるかなぁ」
 営業時間終了後――キッチンの床にモップを掛けてブツクサと愚痴っていたら、ホールの方から声が飛んできた。
「アンタ、口動かしてないで手、動かしなさいよ、馬鹿。早く片してしまうわよ」
「はいはい」
 ホールのテーブルに雑巾を掛けているのは、バイト仲間の大輪田五十鈴さん《いすず》だった。五十鈴さんは「あたしも忙しいんだから、アンタの面倒見てられないのよ」と、そそくさとテーブルを拭いている。
 丁度休憩が五十鈴さんと一緒になって賄いを食べている最中に、しょうがないから掃除手伝ってあげるわよ、アンタあたしが居ないと何にも出来ないんだから……店をくっちゃくちゃにされても困るからね、と五十鈴さんは持っている箸で俺のデコをガンガン突いた。俺は断る理由もなく、一緒に掃除をすることになった。
「キッチンは終りそうなの? もうこっちは終るわよ」
「まだモップ掛けしか終ってない、ダスター掛けはこれから――」
「ものすっごい、遅い。ヤル気あんの? ちょっと待ってなさい、こっち終ったらすぐ行くから」
 調理済みの品を受け渡しする窓口から、ホールを覗いてみると、拭き終えた雑巾を投げている五十鈴さんの姿があった。茶髪のポニィテイルの上から居酒屋の名が入った布を被せ括っている。茶色のカッターに短パン、前に黒のエプロン姿。茶色の前髪から汗が溜まり黒味が掛かる、五十鈴さんは汗を拭いながら椅子に腰掛けて、ふぅと一息ついていた。
「ちょっ、何見てんのさ。見惚《みと》れてる暇あったら仕事しなさいっての」
 五十鈴さんは舌を出して、馬鹿と口ずさんだ。
 くりっとまあるい瞳が細くなり、なにやら恥かしそうにしていた。楕円形の輪郭に大きい口、活発なお姉さんのように振舞う。実際に一つ年上で、大学の先輩――俺は少しばかりドキドキ、胸の鼓動がズキュンとしながら下を向いてモップ掛けに取り組んだ。すると、必死こいてモップ掛けに勤しんでいる俺の肩を、五十鈴さんが叩いた。耳元に息を吹きかけ五十鈴さんは囁く。
「腰が駄目ね、腰が……」
 溜め息雑じりの暖かい息が掛かり、ぞくぞくっと背筋に電気が走った。むず痒い……照れを隠すように「五十鈴さん腰っすか」と呟いた。
「だってアンタ、全然汗かいてないもの、こんなんじゃ終んないに決まってるじゃない。腰に力入れてモップ掛けなさいよ、あたしはダスター掛けちゃうから」
 ポンポンと二、三度肩を叩いて、五十鈴さんはキッチン周りにダスターを掛け始める。
「スミマセン五十鈴さん、いつも苦労をお掛けしまして」
「――それは言わない約束じゃないの、って……何言わせんのよ、馬鹿」
「ネタが古くてスミマセン」
「いえんいえん、こちらこそ……」
 ボケてしまったものの、五十鈴さんにノリ突っ込みを引き受けて頂いたが、微妙な間というか空気が出来てしまった。
「あはっあははは……」もう笑うしか。
「アンタってば、もう、誰のお陰で居残り掃除してると思ってるのよぉ。しょうがないわねえ、馬鹿――帰りに何か奢んなさいね」
「はーい五十鈴さん、スンマセン」
 どういう理由で五十鈴さんが一緒に残ってくれたのか解らないが、掃除を手伝って貰った手前どちらにしても奢るつもりだったので、五十鈴さんが誘ってくれて丁度よかった。
 なんだかんだと……その後は黙々と掃除をこなし、戸締り等全て五十鈴さんにお任せして、近くのファーストフード店へと向かった。


 ☆


「ねえねえ、アンタ彼女居んの?」
「ええええ――何いってんすかっ、いる訳ないじゃないですか」
 テーブルに就いた瞬間、五十鈴さんの唐突の一言だった。俺は手に持っていたポテトを、ぼとぼとぼと――と落としていた。店内は、少ないけれど閑散としない程度に賑やかだった、その中でトレイにポテトを散乱させて、一人焦っている自分が居た。五十鈴さんはセットのグリィンサラダの蓋を外して、レタスの一切れを口に咥える。そうして目尻を緩ませて、悪戯っぽく俺を眺めた。
「へえ~そうなんだ……まあ、アンタの顔じゃあ無理もないか。しかもヲタだし」
「五十鈴さん……うるさいですよ」
 バイトを始めてから半年が経つ、その間色々と世話を焼いてくれた先輩は結構仲が良く、そして俺のことを知っていた。
「あっゴメンゴメン、悪気があった訳じゃ無いんだけどねっ」
 すっと視線を逸らしした五十鈴さんは、窓を眺めながらガシガシとストローを齧っている。頬杖を突いてヌルくなったストレィトティを啜っている。
「そっか、そうなんだ……」
「五十鈴さん、何かいいました?」
 よく聞こえなかったので五十鈴さんに聞いてみると、首を横に振って「何にもないよ」と微笑んだ。五十鈴さんは残りのサラダをフォークで刺して、口の中に放り込んでいた。
 かなり前になるけれど、一度だけ自分がヲタなのがバレるようなことを、五十鈴さんに滑らしたことがあった。何の話題だったが覚えてないが、かなりディープな内容をいった気がする。あまりにも一般人には理解不明な内容だったため、一瞬にしてバレた。
 え、もしかしてヲタの人だったりして。そういって、キョトンとした五十鈴さんの面持ちは覚えている。その後俺の肩を叩いて頷きながら、あたしの妹もヲタなんだよねぇ~親近感湧くなぁ、と笑った五十鈴さんも覚えていた。それ以来急激に親密になって、ヲタの俺が心を開いた数少ない人になる。
 そして――俺も逆に聞いてみた。
「五十鈴さんは居ないんですか? 彼氏」
「ばばばば、馬鹿ね、いっ居る訳ないじゃん。居たら、あ……アンタなんかと御飯食べてないわよっ」
「そうっすよね、こんな時間に飯食ってないですよね」
「もぅ、誰のせいでこんな時間まで働いてたと思ってんのよ! 馬鹿」
 テーブルをドンと叩いて五十鈴さんが立ち上がった、ガシャンとトレイが跳ねる音が響き渡る。しまった、変なこといってしまった。そっぽを向いて、五十鈴さんはボソボソと呟く。トレイが暴れ、五十鈴さんの声は掻き消されていた。
「居るから、アンタと食べてんのよ……」
「え? 五十鈴さん何ていったんですか?」
 五十鈴さんは眉をしかめ、細く上がったキツイ視線で一瞥。
「馬鹿! っていったのよ、馬鹿ぁ」
 うう、どう返したらいいか分からず、俺は黙っているしかなかった。あまり五十鈴さんのことをみれないままで、下を向いて炭酸の抜けたコーラを啜る。不意にデコに冷たい雫のようなものを感じ、体を戻した。
 ちょっと言い過ぎたみたい……ゴメンね、と俺を覗き込むようにして、五十鈴さんはストローでデコを小突いていた。それでも言葉が出なかった――黙っていると、俺の頭を撫でた。
「だいぶ遅くなったから、もぅ行こっか」
「あ、はい」
 五十鈴さんの顔色を窺うと、ニコリと笑った。そうして――
「当然……家まで送ってくれるんでしょうね!」
「はい、送らせて頂きます」
「当然よね」
 後、よろしくねぇ~表で待ってるからぁ、と残りの片づけを任せて五十鈴さんは表へと出て行った。


 ☆


 時間は午前二時、夜の静かさも漂う五十鈴さん宅の玄関先で、僕は茫然と口を開けていた。五十鈴さんが家に入り、玄関のドアが閉まってから……だいぶ経っていた。俺は真っ赤に染まった頬に手を当てて、佇んでいた。
「五十鈴さん……」
 頬の感触を思い出しながら、夏の生暖かい風を感じていた。頬に残るやわらかい感触、頬に当てた手に透明のクリームが残っている。メンソールの抜けるような香り、五十鈴さんのリップクリームだ。
「か、帰ろう、うん帰ろう」
 誰に確認するでもなく、俺は呟いて自宅に向かった。



 Ⅲ.自室
 ギギギギギ。
 嫌にパソコンチェアの軋みが気になった、ヴァゥンというPCの電源を入れたときのノイズが気になった。卓上スピィカーからは声優の歌声が流れ出し、俺はベッドに身体を投げ出して激しく身体が沈み込んだ。
「今日は色々ありすぎた、疲れたよパトラッシュ……」
 組んだ手を後頭部に載せて、黄ばんだ天井を眺めた。
 さっきの五十鈴さんの行動、一体どういうことだろう……
 俺はファーストフード店から家まで五十鈴さんを送り届けると、玄関先で考える仕草を取った五十鈴さんは――人差し指を口元に持っていって不意に俺のホッペにキッス。さっきまでの光景が生々しくリアルに浮かんでくる。あたたかく、やわらかい唇の感触が、頬にしっかりと残っていた。
「まだ熱い」頬をさする。
 俺は胸の鼓動が冷め止まぬまま、俺はあまりにも多すぎた今日の出来事を思い返していた。朱に滲んだ黄のルームライトが俺を照らしていた。
 五十鈴さん、どうしてキスなんかしたんだろう、御飯を食べている時も――なんか変だったし、掃除も手伝ってくれたし。今でも、ドキドキがツーバスで心臓へと叩き込む、痛いぐらいだ。五十鈴さんは、仕事に関してはテキパキとこなす母親のような人、プライベィトだとちょっと抜けた可愛らしいお姉さん的存在。コロコロ表情が変わって一緒に居て楽しくて安心する、そんな人だ。俺のヲタを否定しなかった数少ない大事な人だから、大切にしたいってもの、かなりある。
 俺はどうしたらいいんだろうか、こうなってくると明日バイト先で会うのが、少し怖くなってきた。いままで通りに普通で居られるのかどうか、不安が残る。
 ふぅと一息吐いて、タオルケットの中へ身体を潜り込ませた。MP3はノンストップで垂れ流れている。
「それとあの人、三つ編み眼鏡自称二十五歳か……」
 校舎の非常階段で遭遇した鈴鹿先生、授業では大人しい物静かな先生だったのに、なんであそこまで変貌したんだろう。大学に入ってから一切の接点がなかったと思うんだが、何処かで何かをしたんだろうか? 俺が。
「全く身に覚えがないときた」
 しかしねぇ三つ編み眼鏡、さらにソバカスときたら古典的だよな。髪の毛をピンクにしたら、立派な図書委員キャラクターじゃないか。嗚呼……ちょっと萌えるかも。
 ――いやいや、それはそれで嫌な感じだよなぁ。先生だし、リアルで図書委員キャラはシンドイかも、そうはいってもあのペースでガンガン押されてもなぁ……押し負けしそうだ。
 なんにしても俺が一体どうしたいのか、どうしたらいいのか、それすらも分らない心境だった。色々と起き過ぎた、神経も体力もすり減らしたし――寝るか。
 モニターに映し出されているスクリィンセイヴァの掲示板を眺めてながら、睡魔が襲ってきていた。ゆっくりと横に流れる文字は、“いやぁ、私のガンダムがぁ”ニーナ・アップルトン様の名言だった。何気に目に入って苦笑して、「これがガンダムの性能かっ」と零していた。
 睡魔が本格的に訪れる、眠りに就く俺の耳に、アイドル声優の歌声が流れ込んできていた。



 Ⅳ.菊池忠士
 翌日の昼休み、夏休み前の食堂――この時間は冷房が掛かり、心地良いひとときを過ごしていた。草むらで弁当を食べる生徒、外食する生徒、俺等は食堂にきていた。
 ガキの頃からの腐れ縁、友人菊池忠士《きくち》。良いか悪いか、俺をヲタクの世界にざっくりと引き込んでくれた連れだ。菊池はちょっと裕福な家庭だったもので、幼稚園の頃から五十型のTVでアニメ三昧――LDとピュアオーディオで、価値も解らないままアニメを観まくっていた。その後、よく庭で――シャア&アムロゴッコ――遊んだもんだ。
 学食のテーブルについた俺と菊池は箸を進める。菊池はラーメン俺は唐揚げ定食、それら摘まみながらガンダム話で語らい、談笑に華が咲いた。
「でさぁ、GP3デンドロビュムとラフレシア、どっちが強え? 菊池」
「ラフレシアだろ? GP3乗ってるのコウウラキじゃん、そこの性能の差がねぇ」
「ウラキじゃぁしゃあないか、ビグザムにも勝てる気が――」
「じゃあさ、じゃあさ、カミーユがボールに乗ってラフレシアとやったら?」
 なかなか勝敗がつきづらい微妙な問題で議論が展開していると、向こうの辺りの席で騒がしくなった。ぞろぞろと集まってくる人だかり、五人十人とあちらのテーブルを取り囲むように壁ができていた。
「おっ、ファン倶楽部のヤツら集まってきてるねぇ」
 友人菊池は覗き込むように眺めた、嬉しそうにはしゃいでいる。
「何それ? うちの学生にそんな可愛いの居たっけ?」
「違う違う、先生だよ先生。居るだろ? 萌え系のエロゲに出てきそうな図書委員キャラがね」
 ラーメンを啜りながら、友人菊池はほくそえんだ。
「噂……聞いてるよ、くっくっく――告白されたんだってぇ? 鈴鹿先生に」
「ちげ、ちげーよ、ってか……あれ告白になるのか?」
 昨日の今日でもう噂になってるとは、おいおい情報が早すぎるぞ。ただ、チビロリ眼鏡三つ編みソバカス実年齢二十中盤前後の鈴鹿先生に、からかわれただけのような気もするんだけど。
 ラーメンの汁を飲み干した友人菊池は、傍事《はたごと》だと思ってカラカラと笑い飛ばす。
「ファン倶楽部の中では告白になってるらしいよ、だってお前おっぱい覗いたんだろ? ブラ引っ張って」
「うはっ、あれは鈴鹿先生が見ろっちゅうからだなぁ……」
「おもっきし、いいおもいしてんじゃん」
「うっせーよ、ってか何でそんなとこまで分ってんだ」
 ニヤケまくりの菊池の野郎は、俺の皿から唐揚げを摘まんで口に入れる。
「知り合いにファン倶楽部の諜報部員が居るのよ、アイツを舐めちゃイカンよ君。部屋の押入れ開けるとハードディスクが縦積みにしてあるらしいよ、サーバーかと思うぐらいに」
「どんだけデータ取ってんだ、怖えぇ」
「ハイビジョンで高画質、高音質高品質。一瞬にして容量消し飛ぶらしいよ、ハードなんてRだっていってたわ、DVD-Rと一緒で使い捨てだって。ホント怖いよね……これから、お前もそんなのに絡まれていくんだ、楽しそうだな」
「楽しくねーよ、死ね! 菊池、代わってやるから存分に楽しんでこいっ。遠慮するな」
「相手が悪いよ、無理。あのファン倶楽部に喧嘩売りたくない」
 そうしてぼうっと二人して、猛者を従えた図書委員キャラ鈴鹿先生を眺めていると、友人菊池が思い出したように切り出した。
「そうそう、昨日の鈴鹿先生……普段と違うっていって、あいつら騒いでたよ。激萌えだっていってよ」
 ん? あの気が違っているようなハードな先生が……激萌え? 物静かな胸に本を何冊か抱えてそうな普段と違う、あれが。
「菊池、あんなのがいいのか? 既に日本語喋ってなかったぞ鈴鹿先生」
「ギャップ萌えらしいよ、チビロリ三つ編み図書委員キャラの概念を覆す最強のキャラ属性だって。諜報部員が収録した映像が、胸チラも入って取引価格が高騰してんだってよ」
 うわぁ、物好きもいるもんだ。俺はもうちょっと、やんわりと優しい感じのお姉さんがいいんだけどなぁ。昨日の鈴鹿先生は、子供っぽい感じだったし。ギャップ萌えねぇ、解らないでもないが……ちょっと引く。
「菊池はどう? 鈴鹿先生はタイプ?」
「普段の鈴鹿先生は可愛いよなぁぐらいだったんだけど、諜報部員にちょこっと見せて貰った鈴鹿先生は……やっぱ萌える。激萌え図書委員に、理不尽に言い寄られんだよ、先生乗っけて盗んだバイクで走り出してぇー」
「そのまま事故って崖から飛べ。俺は駄目だな鈴鹿先生、こうやって話してて解ったけど、普段の先生の方がまだいいや」
 うんうんと頷いた友人菊池。まるで全てが分かっているかのように振る舞う。真剣な眼差しを俺に送り、晴れやかな面持ちで最後の唐揚げを持っていった。
「ちょっ菊池ぃ、それ最後の唐揚げ――」
「分かる分かる、お前にはちゃんとバイト先の先輩が居るもんな……五十鈴さん――だったっけ?」
「勝手に決めんな、まだ付き合ってねーよ」
 きょとんとした菊池は俺の御飯まで食べながら、眼を見開いた。友人菊池は全部平らげやがった。
「まだなのかよ、マジで。今までの先輩の話し聞いてたら、もう付き合ってるかと思ったよ。なんだかんだと手伝って貰ったり飯食ったりしてんだろ?」
「まっ、まあな」
 確かに色々やって貰っている、お礼で飯も奢っている。ただ、五十鈴先輩は出来の悪い後輩の面倒を看てくれてたんじゃないのかぁ、分らない。
「お前は気にしないでも、先輩の方からアプローチくるから心配するな。俺は鈴鹿先生かな?」
 友人よ、ズバッとド真ん中突いてくるじゃないか菊池ぃ、新手のニュータイプか?
「菊池……あの新兵器撃ち込んでも死ななそうな奴ら相手に、お前は頑張るのか」
「嗚呼……忘れてた。そうなんだよ、恐ろしく強そうなんだよぉファン倶楽部の面々」
 俺は、友人菊池の肩を優しく叩いて、食堂から出た。食堂から出た瞬間、むわっと蒸し暑い風が俺を叩く。菊池は「なんで鈴鹿先生は、さっき――お前に声掛けなかったんだろう?」と聞いてきた。俺は「そんなこと知らん」と答えて、午後の授業を受けるため、校舎の中に入った。



 Ⅴ.キャンパス
 校舎三階のドアをくぐると、そこは途轍《とてつ》もなく暑かった。非常階段三階、鉄の階段の踊り場は、太陽光が反射して暑いというよりも熱いぐらいだ。逃げるようにして階段を下る、一瞬、ホンの一瞬――昨日の事故が脳裏をよぎったが、あまりの熱さに俺は駆け降りていた。
 嫌な予感……フラッシュバック。
 ――むぎゅ。
「マジですか、俺……何か踏みましたよね、そう柔らかい何かを」
 プルプルと脚が小刻みに震える、俺はそうっと何かを踏んでいると思われる右足をあげた。
 言葉では言い表せない、理不尽というか自分の愚かな行為を呪いたくてしょうがない。変人極まりない鈴鹿先生の性格を考えると、この場に居てもおかしくはなかった。
 俺は馬鹿というか、いや馬鹿だ。
 ヲタク的に漫画の典型は天丼、同じネタを被せるのは定石、萌え属性――図書委員鈴鹿先生――ならネタを被せるに決まっているじゃないか……くそっ、眼鏡っ娘三つ編みの認識を甘くみていた。
「やっぱ、鈴鹿先生ですよね……」
 俺はシドロモドロで話しかけた。
「嬉しいぞ君、私は嬉しすぎる。この昨今に置けるお約束的ネタを受けうる技量のある人間が少ない中で、君はシッカとやり遂げた。ネタを振っても冷たくあしらう現在の情勢に真っ向から立ち向かう反骨精神、これぞ真の漢! 即ち私に対する愛だ。さあさぁ気に病むことはない、胸を張って私を抱き締めたまえ、遠慮することはない」
「……いえ、遠慮します」
「君の愛が大きすぎて、壊れるまで抱き締めてもいいんだぞ? 壊れちゃってもいいんだぞっ君」
 この人はどうして思いっきり振りかぶって、フルスイングで空振り出来るんだろう。
「むしろ、壊しちゃえ!」
 鈴鹿先生……そういいながら拳を作って、人差し指と中指の間から親指を出すの止めてくれませんか、もの凄く卑猥です。表現が素直でストレート過というか、誰もそんな直球投げませんから。
「鈴鹿先生、昨日と同じで――帰ってイイデスカ?」
「狂おしい程抱きしめて壊したい! と号泣しながら雄叫びをあげて、私に愛を届けてくれたら許可する」
 ビシっと中指を立てる鈴鹿先生……そこは親指と思うのですが、そうですか。チビロリの鈴鹿先生は下から俺を見上げる、真っ直ぐな視線で貫き、俺は金縛りにあったように身体が動かない。鈴鹿先生はタイプじゃないといっても三つ編みソバカス眼鏡チビロリない乳派図書委員属性、ヲタクの心を鷲掴みにすることなんて簡単だった。
 図書委員鈴鹿先生は結った三つ編みを振り回しながらいやいやをする。イキナリ俺の腰元に腕を回し、しがみついた。
「昨日は逃がしたが今日は逃がさん!」
「ちょっ、鈴鹿先生……」
「愛ゆえに人は哀しむ――愛など必要では無い、と言い張った猛者がいる、しかし私は断じて違う」
 ギリギリと腕が食い込んでいく、俺が壊れそう。論点がズレつつ、さらに熱弁を奮う。
「持論はこうだ、愛ゆえに人は喜ぶ――愛は必要ではないか! 案ずるな、なにもいわなくても解っている、照れているんだろう? たかだか二十そこいらになった若者の純情は鋭角で脆く、割れた硝子のように人を傷つける。だが君に傷痕を付けられるのは結構、愛と言う名の傷を私の身体に刻み込んでくれ」
 トドメに、か細い声でカモンと聞こえた。
 ――俺は逃げた。
 怖い……怖すぎ。昨日より遥かにレヴェルアップした鈴鹿先生には、誰にも勝てない。押し切られるどころか家に帰れなくなるどころか、勢いあまってこのまま入籍させられそうだ。
 鈴鹿先生諸々属性を振り切って、俺は階段を駆け降りた。
「何といったらいいか、鈴鹿先生……お疲れ様です」
「酷い。一度もならずも二度までも、純潔を絵に描いたような清楚な私を傷物にして逃げるのか。清清しく可憐に散る乙女は、こんな事でへこたれない、愛が私を呼んでいる」
 カンカンカンと物音を立てて俺は階段を走った。しかし上からコンコンコンとヒールの足音が聞こえてくる。純情路線を頑《かたく》なに言い張る鈴鹿《おとめ》が追い掛けてきた。
「先生! 清楚な乙女は粛々と華と散って下さい」
 俺は階段を降りきってキャンパスへ出た、そのままノンストップで校門へと駆ける。非常階段から足音が消え、鈴鹿先生もキャンパスへと続いた。


 ☆


 追いかけてきていた鈴鹿先生は息を切らしている、俺はアドバンテージを取った位置にいた。図書委員のシンヴォリックな三つ編みをなびかせて、鈴鹿先生は肩を上下させていた。
「待て、愛する我が君よ。愛の逃避行も趣があって宜しいが、今は解り合うのが肝心だ。私の元に帰ってこい」
「スミマセン先生、俺にはバイトが待ってますので――」
 少し罪悪感に苛まれながら、俺は走り出そうとした矢先――同じく鈴鹿先生も駆けようとして足を前に出した、が。
「あう」
 あっ、こけた。スッテンコロリンと前から豪快にコケた。ずるずると重力に導かれ鈴鹿先生は芝生の上をずっていく、眼鏡は吹き飛び顔は土を削って止まった。泥だらけになったチビロリっ娘、その姿をみたらズキズキと胸が痛んだ。
「鈴鹿先生、ごめん」
 俺は声を掛けていたら、吹き飛んだ眼鏡が通行人の足元まで転がる。そして靴に当たって止まった。
 眼鏡を追っていると、眼鏡が当たったその靴に見覚えがあった……赤のスニィカー、革のジャックパーセル。仕事だから濡れても汚れてもいい、といっていた安物の赤いスニィカー。居酒屋のバイト先の先輩と同じ靴だった。
「五十鈴先輩?」
 足元から視線を上へと持っていく、にっこりと笑みを浮かべる五十鈴さんがいた。
「別に五十鈴さんでいいわよ。で、どうしたの? こんなところで」
「ちょっと先生と……」
 ん? と俺を一瞥して、スラリと五十鈴さんは立っていた。プリントもののティシャツにジーンズ、いつものように頭はポニィティルに結っている、うっすらとナチュラルな化粧にピンクのリップが印象に残った。身体のラインが綺麗に流れる、その凶暴なフォルムに一撃必殺。
 この使い方が間違ったような、三位一体の微妙な取り合わせに俺は、茫然と立ち尽くした。
「先生、眼鏡お返しします」
「嗚呼、ありがとう」
 ぶっきらぼうに眼鏡を渡した五十鈴さん、鋭く瞳が閃光したようにみえた鈴鹿先生。水面下でカルマが蠢いているようだった。分らないけど、何かが動き出していた。
「で? 鈴鹿先生。うちの後輩に何か御用ですか?」
「愛する我が君と語らっているだけだが……五十鈴君っていったかな? うちの後輩、うちのとは、はてさて一体」
「な、なによぅ……あ、アンタこそ愛する我が君って。ちょっと、どういうことよ!」
 イキナリ血走るような毒舌、流石の俺でもどうなっているのかは分かる。女同士では語らずに、何かで察知出来るのか、息苦しい……おうちへ帰りたい。
「遠い昔、幼年期に愛を誓った仲だ。最近の、ポット出の五十鈴君には出番はない。邪魔をしないでほしいんだがな」鈴鹿先生は俺をみる。
「ああああ、あたしだって昨日キスして、つつつ……付き合いだした仲なんだからねっ」五十鈴さんは俺を睨みつけた。
 誰か助けて下さい。この夢にまでみた伝説のハーレム状態。それがこんなに辛いものだったなんて、リアルは厳しいものがある。嬉しい反面悲鳴をあげそう。
「あああ、あああ――」
 何も言葉が出なかった。
「もう! アンタも何か言いなさいよ、あたしだって恥かしいんだからぁ」
「まあまあ五十鈴君、そう興奮しなさんな。私など愛おしい我が君に、か弱いお腹を踏み付けられ傷物にされて、心身ともに彼のものになった上に、我が君は私にブラをひょいっと引っ張りあげて、全てを見透かしてしまったんだ。その日は感涙のあまり寝られなかったんだぞ」
 ――この絶妙なタイミングで……絶句。
「ええっ、ちょっとぉおアンタ! 昨日何やってたのよ。馬鹿――馬鹿ぁ」
「何をって、俺、何にもしてないっすよ五十鈴さん」
「そうそう、取り立てて特別な何かをやってはいない。ただ、愛する二人がやることは一つ。育みというか営みというか……生娘が女性へと脱皮する感じか? 我が君」
 脳が融解したように真っ白になった。ある意味完璧なタイミングですよ、最強の萌え属性鈴鹿先生。うな垂れるように頭を抱え込んだ俺は、ある結論に達しようとしていた。
 夢落ち。そう、夢落ちなんだ。
「五十鈴さん、俺を思いっきり殴って下さい」
「どうしたのイキナリ、しっかりしなさいよ。ちょっとぉ」
 たじろぐ五十鈴さん、心配そうに俺を覗き込み頭を撫でた。「変人相手に頭おかしくなっちゃったの?」五十鈴さんは、よしよしと優しく接する。
「五十鈴君、君はいやに馴れ馴れしいな」
「アンタに言われたくないわよ、うちの後輩おもいっきし嫌がってるじゃないのさ」
 腕を組んでいた鈴鹿先生は、人差し指を立てて左右に振り、チッチッチと舌打ちをした。
「これは、だね。いわゆる一つのツンデレだ、照れ過ぎてしまって反発してしまうものだよ。我が君もこの現状は夢落ちだと疑心難儀に満ち溢れている。仕方がない、ここは私が愛の儀式――処女の接吻――で覚醒してみせよう」
「ば、バッカじゃないの先生! そんなんで起きる訳ないじゃないの。処女の接吻って、何考えてんのよぉ」
「処女じゃ無い奴に言われたくない」
 むすっとして、チビロリ派自称処女鈴鹿先生が言い返した。
「むきぃ! そそそそそそ……そんなことないわよ!」
 わなわなと打ち震えた五十鈴さんは、俺の胸元の襟を掴んで豪快に振りまわす。顔を真っ赤にした五十鈴さん、俺は意識が回復しないまま禁句を口走ってしまった。
「処女なんだ……」
「五十鈴君……処女なんだ。まっまぁ、誇りにしたらいいんじゃなかな」
 鈴鹿先生の追い討ち。しかも騒いでいたお陰でギャラリィが集まってきていた、ざわざわと……聞こえる。ひそひそ声が重なって辺りを包み込んだ。
 ――処女なんだ……処女。――その歳で処女なんだ……可愛いのに。お姉系なのに――その歳で。――よっぽど男運が……辛いよねぇ。
「ううう、うっさいわよぉ馬鹿!」
 振りかぶった五十鈴さんの平手が、俺の頬に入った。パシィと、快音がキャンパスに響き渡る。霞んでいた視界がみるみるうちに元に戻っていく。しかし、俺のある結論は失敗に終った。
 嗚呼……夢じゃなかったんだ。
 刹那、視界が戻った途端――霞んで暗闇掛かった視界が元に戻っていったが、そのまま真っ白に視界が歪んでいく。五十鈴さんの想い《マイナス要因》が込められる平手が、脳を揺さぶり意識が失われていった。
「ちょっと、大丈夫? ねえ、大丈夫?」
「我が君! 心配ないぞ、私がついているからな」
 二人の言葉を聞きながら、目の前が真っ黒になった。――五十鈴さんは処女だったんだ……



 Ⅵ.家宅
 ねえ、ちょっと起きてよ、ねえ。
 声がする、心地いい声。五十鈴さんの声がする。
 この寛容的な愛のウエィヴで起きないところをみると、愛しの我が君は相当憔悴しきっているようだな。
 甘い声がする、心に抉り込むような声、逃げられない感じがする声、鈴鹿先生か。
 ――両脇が暖かく柔らかい感触が俺の腕を絡めていた。むにゅむにゅとして、しっとりとした質感が幸せを感じる。両耳に吐息掛かる、くすぐったい声が入ってきていた。
「五十鈴君これでは足りない。ええい、暖めに邪魔な下着を取ってしまいなさい」
「ええええ! 何で、もうこれ以上は恥かしいよ先生。大体どうして後輩を起こすのに、裸で抱き合って起こさなきゃなんないのよ!」
「決まっている、愛するものを起こすのは処女の接吻か、もしくは乙女の純情、即ち生まれたての姿によって愛情を掛けて、肌で暖め合うのだと決まっている」
「嘘よ! そんなこと聞いたことないわよ」
「なら別に私一人でいいが――むしろその方が好都合だしね。しかし残念、五十鈴君の抉り込むドラゴンアッパーのようなえげつない平手が、確実に仕留めたか」
 俺の胸から脚に掛けて、左右違う感触の指がつるつるとなぞっている。下から上へ鎖骨から内太腿まで、さらさらの指が上下に滑る。
「分りました、やればいいんでしょう。そんなの、先生一人にさせたら、うちの後輩犯されるわ」
「犯しはしない、愛情を互いに確かめ合うだけだ。だいいち五十鈴君のそのブラ、素材が安物且つチィプだ、大事な身体を引っ掻いてしまう恐れが」
「失礼ねぇ何が安物よぉ、そりゃぁ……確かに上下セットで三千円ぐらいのものだけど」
「私などはワコール社製の下着。ショッキングピンクとベージュのギンガムチェックの上下、華奢な身体でチビロリィ系の私にドンピタだ。清楚で可憐、我が君に従順な私のための然るべき下着なのだよ、ちなみに二千円のリィズナブルな金額だが、君と違って材質はオールコットンと――肌触りのレヴェルはトップクラスに君臨する」
「そんなこといって、アンタ今着けてないじゃない!」
「むむ確かに私は全裸、だがこれは仕方の無いことなんだ。いくらオールコットンだと講じたところで、絹ごしのような裸体の前では全面降伏、ありていに平伏してしまうもの。そうでなくとも清楚の中にエロティズムを有する私に腕を抱かれる我が君は、ピクピクと私の内腿を弄ってしまっている」
 俺は、只今の状況がさーっぱり解らないが……どうやら五十鈴さんに平手を喰らって気絶していたらしい。両サイドで喧嘩をしてる五十鈴さんと鈴鹿先生の解り難い会話で把握出来た。半濁したような意識の中では感覚が麻痺している、現在何処で何をしているのかも、さーっぱり解らなかった。
 そうしている内に、左の耳からは鼓膜が破れるのと違うんか? といわんばかりの五十鈴さんの罵声が飛んだ。
「ちょっとぉぉおお、何先生に欲情してんのよぉ馬鹿! ……ぁ、ぁたしん所はなんにもしないじゃない、ばか、ばかばか」
「ふふふ五十鈴君、どうして君に何もしないかって? そんなもの、艶も色気もへったくれもない安物の下着を着けているからだろうに……乳だけがデカくて色気無いなぁ」
「分ったわよ、脱げばいいんでしょっ脱げば! まぁーったく色気の無い人にいわれたくないわよ」
「清楚の中の雅が分らないお子ちゃまは、ふぅ……怖いなぁ、全く」
 微妙に噛み合っている会話を聞きながら、俺は意識が回復してきていた。とりあえず左頬がジンジンするのは置いといて、俺はベッドの中で寝ているみたいだ。そして両サイドで五十鈴さんと鈴鹿先生がいる。
 ……肌の感覚がおかしい。腕には今までに感じたことがない、すべすべとした不思議な肉感。この直接肌に感じる感覚は。
 俺、服着てない? ハイ、着ていません。
 左の腕にいる五十鈴さんがもぞもぞと、中で動いていた。かさかさとした質感の中に、たわわな肉質を感じる。むっちりとした五十鈴さんの肌が腕に巻きついてくるような、吸い込まれる感触だ。
「ううぅ、ねぇ早く起きてよぉ……」
「黄金の右が効いたな」
 鈴鹿先生の一言で静かになった。両耳では、甘い吐息が続く。そして俺にしか聞き取れないほどの小さな声で、五十鈴さんは「ごめんね」と囁いた。
 嗚呼、もう。意識は完全に戻ったけれど、起きれない動けない。掌に感じる二つの感触、左に感じるのは、むにゅりと吸い込まれる太ももの五十鈴さん。右に感じるのは、ほっそりとした肌理細やかな太腿の鈴鹿先生。
 あっあかん、抗えねぇ。
「むむむ、五十鈴君。良かったな、我が君が起きたぞ! これでコークスクリュゥ気味に入った黄金の右で、我が君を生きた屍に仕上げた十字架を背負わなくていいな、ほれ」
「ちょっ、先生何すんのよ?」
 布団の中で、鈴鹿先生は五十鈴さんの腕を取った。そのまま先生の手は俺の下半身へと……って、えええ!? マジでちょっと待って下さい。
 はううう、そっと先生は五十鈴さんの手に握らせて、先生はその下を掴んだ。むにむにと先生は優しく揉む。あう、この違う二つの感触が同時に。
「おっきい……」
「な? 我が君が起きただろ?」
「お、お、お、おっきしたって、その意味じゃぁないよ……あん、凄く熱いよ」
 鈴鹿先生はくみくみと弄って、下から五十鈴さんの手を押し上げ、五十鈴さんの手を半ば強引に差し向ける。何度も鈴鹿先生に下から突かれた鈴さんの手は、徐々に握る力が入っていき、ぎこちない指で――
 いい……そして、気持ちいい。
 そうして、鈴鹿先生は下から突くのを止めて擦る。右の耳に暖かい吐息が掛かって、高くアニメ声のような鈴鹿先生は優しく囁いた。「さあて、これはどうかな」鈴鹿先生は一旦弄るのを止め、三つ編みで首筋を撫でた。
 あひゃぁ。
 ぞくぞくぞく――っと全身に鳥肌が立った。さらに鈴鹿先生は、右耳に息を吹きかけて囁く。「ふふふ……気持いいのか? 我が君。ほら、何も仕掛けてないのに、一生懸命五十鈴君、あらあら大変だ」鈴鹿先生にそう囁かれ、一気に脳が麻痺していく。
 左耳では五十鈴さんが、何度も何度も――「ねえ、気持いい? ねえ感じてるの?」と囁く。
 ああああ――俺のリビドゥが一気に跳ね上がる。ヤバイ……こ、こんな設定ありえねぇ。視聴率獲得のため、製作会社サイドの作為的な悪意を感じる。
 追い討ちをかけるように、鈴鹿先生が俺の手を持って自分のロリ系ナイ乳に当てる。そして悪戯っぽく囁いた。
「おっぱいペっタンコなの……お願い、おっきくして」
 ぐはっ! ヲタク心を揺さぶる鈴鹿先生、確信的に詰めてきやがる。俺の左腕は五十鈴さんの大きいおっぱいに挟まれ、左手は鈴鹿先生の胸の中。この表現不能な――己が過度に加速度的。
 一心不乱な五十鈴さんのひたむきさ加減に申し訳ないと想いつつ、そのひたむきさ加減が逆に興奮してくる。
 もう駄目……宇宙《そら》に向かって撃ち出しそうです。
 既に手馴れた手つきの五十鈴さんは、その性格からキツメに握り、搾り出すように無我夢中。鈴鹿先生に何もいわれていないのに、五十鈴さんは止まらない。五十鈴さんはもう片方の手のひらで、一旦止めていたことを再開、むにむにと揉みしだいていく。
 弾力のあるやわらかな太ももに、ぎゅーっと掌を締めつめられる俺は、五十鈴さんから溢れ出したものを感じた。自然と俺は、五十鈴さん側へ顔が向けられていく。
「手に取るように、わかるぞ、我が君。私というワイフを差し置いて、妾に心を許すなんて」
 ぐいと顔を引き寄せられ、可愛らしい瞳を輝かせて、改めて三つ編みソバカス眼鏡チビロリナイ乳派自称清楚な鈴鹿毒舌萌え要素満載先生《乙女》が、俺の唇を奪った。もう俺は、この人から逃げ出せないんだね、パトラッシュ――
 五十鈴さん鈴鹿先生と俺の感情が入り乱れながら、限界が込み上げて全出力。五十鈴さんが放つ、渾身の手腕が猛威を奮う。鈴鹿先生からは、GOの合図が囁かれていた。
「ええい、ままよ」
 布団を巻くり上げ、そして起き上がり、俺は逃げ出した。
「起きました! 俺、起きましたよ」
「えええ! ちょっ」
「うふふふ……我が君は可愛い、これが若さか」
 どうしていいか分らない、とりあえず目にとまった俺のシャツを拾い上げて、部屋を出た。裸のまま廊下に出た俺は、斜め向かいのトイレットとあったドアを開けた。
 バタン――



 Ⅶ.再び菊池来襲
 一連の濁流の中で、男の性《さが》と鈴鹿先生の押しの強さに流されていた俺は、落ち着く為に呼吸を整える。はぁはぁはぁ……収まらず息があがる。一旦座椅子の腰を下ろし、額から流れ出る汗を拭った。
「後先のこと考えてなかったが、これはこれで二人に対して悪いことをしたんじゃ」
 何事にも悪い方向へと導く鈴鹿先生にはあまり罪悪感を感じなかったが、その濁流に流された五十鈴さんには、気の悪いことをしてしまったと、罪悪感が込み上げてきた。
 しかし、まさか、あの五十鈴さんが俺のことを……しかもさっきのイベント。思い出すとドキドキと嬉しさと恥かしさが、これまた濁流にのって押し寄せてきた。
「なんにしても、このままでは危険だ。鈴鹿腐乱恥先生の策略に巻き込まれ、ドキドキのスリィポイントパーティ、三人プレイが待ち受けている。くそっ、俺はこんな――なし崩し的に童貞を失うのか」
 この、今どこに居るのかすら分らない状況を打破するには、ヤツの助けが必要だ。このヲタク心を擽《くすぐ》って興味津々な出来事をヤツに話すと、嬉しそうに野次られるかもしれないが、悠長なことをいっている暇はない。逃げ出す寸前に拿捕したシャツの胸ポケットから携帯を取り出す。
 俺はすぐさまヤツ――友人菊池――に電話を掛けた。
「菊池、俺、今、何処に居るのか分んないんだ。助けてくれ」
「え? どういうことよ。お前、今、バイトしてんのと違うの?」
 過度に湾曲したこの現状、リアルではありえないが起こってしまったこの設定、五十鈴さんと鈴鹿先生との板挟みの中で、こんがらがった糸を解いていくかように、一から懇切丁寧に菊池に伝える。俺すら混乱しているのに、友人菊池が分るはずがない。何とか無い頭を絞って、記憶を辿りつつ菊池へと伝達する。
「なにその天地無用的な状態。熱いね~、何? お前自慢してんのか」
「アホか! 俺にそんな余裕ねえって。とりあえず俺一人じゃ何ともならんから、菊池ぃ助けろ」
「五十鈴さん居んだろ? 二人掛かりで何とかしろよ」
「無理、出来たらこんなところで電話してねぇって。鈴鹿先生のやること半端じゃねえから、菊池来いって」
「来いっつったてなぁ……どこに居るのか分んないんだろ?」
「多分……五十鈴さんの家か鈴鹿先生の家だと思うんだけど。それすら間違ってるかも知れないし」
 目を開けてから、逃げ出すようにトイレに駆け込んだため、部屋がどんな感じだったのか廊下がどうだったのか、全く分らない状況だった。
「んじゃぁ、お前の頼みだ、何とかするよ。ちょっと調べるのに時間が掛かるから、何とか耐えてくれ。まあ、最悪犯されとけ」
「てめっ、何言ってんだよ! 鈴鹿先生はああいう人だから――まあ、ともかくとしても、五十鈴さんが可哀相だろうが」
「くっくっく、頑張れよ。それはそれで面白いじゃんよ。そんな設定に出くわしたいよなぁ、俺って恵まれてねえよ」
「いつでも代わってやるから、早く来い! すぐさま、即!」
「はいはい、分りましたよ。また後で~」
「おう、頼む」
 携帯を握り締め、電話を切って折り畳んだ。とりあえず、俺のこれからの行動を考える。
 このまま、逃げ出すにしても五十鈴さんを置いていけない。五十鈴さんと逃げ出すにしても、鈴鹿先生に絡んでしまったら、あの超絶属性以下略の策略に丸め込まれ、二人共押し切られて犯されるかも知れない。一方的な自称愛情が、俺たちを絡め取ってしまう可能性が大。いや俺と五十鈴さんの防御力からしても、確実に仕留められる。しかも悪気がなく、紛れもなく本気だから性質《たち》が悪い。憎めないところも、さらに抉り込む黄金のアッパーカット。
「残った選択は、一度部屋に戻って、菊池が来るのを待つしかないか……」
 そうして、俺は、ドアのノブを掴んで捻ろうとしたところで、携帯電話が鳴り出した。
 来た? 菊池? 俺は急いで携帯電話の通話ボタンを押した。
「犯されてる?」
「まだだよ――ってか、犯されねえよ」
「それは残念。お前のヴィバ脱童貞、ひと夏のアヴァンチュゥルを楽しみにしてるのによっ」
「てめっ、シャレにならねぇって。マジでお前――今何処よ?」
「くっくっく。今すげぇことなってんのよ、お前の居る場所が分かって目の前に居るんだけどよ、鈴鹿先生ファン倶楽部の面々が家の周り囲んでて百人ぐらいは居るんじゃねぇかな。俺の数少ない友人たっての頼みだから、諜報部員に聞いて何とか来てやったぞ」
「マジで! そんな居んの? 俺……生きて帰れるのか」
「さあね、まあ木に登って撮影してたヤツがゴミのように降ってきたらしいから、無理じゃねえの」
 ガッガッ! 視《み》られてた、あの光景……しかし、布団の中の出来事だから、五十鈴さんの裸はみられてないハズ。木の上諜報部員撮影隊は鈴鹿先生の、おっぱいペっタンコなの……以下自粛の発言に駆逐《や》られたか。だったら、菊池もこのことを。
「なあ、菊池。何処まで知ってるんだ」
「ん? あぁ全部。ってか、お前逃げ出す時五十鈴さんで……部屋の中で鈴鹿先生と五十鈴さんがさぁ、言えねぇ――これ以上は言えねぇ」
「うぞ……ちょっ、おまっ」
「さっきから撮影隊がボトボト木から降ってきてるしよ、撮影出来んのかよ……これ」
 一体部屋で、五十鈴さんと鈴鹿先生が何をしているのか分からないが、これ以上エロエロシィーンを撮られてたまるか。
「今からすぐに突入して助けろ。俺も部屋に戻って何とかするから」
「はいよ。俺も、どう突入するか考えてるから安心しなさい、俺って友達想いだよなぁ――んじゃあ、今からピザ屋を装って突入するから、お前は注文したことにしていてね」
「ピザって、おい。このタイミングで誰がピザ注文するか! おい、菊池ぃ、おい! 聞いてんのか」
「アムロ逝きまーす!」
「逝ってどうすんだ、菊池、マジで、無茶だって、菊池ぃいい」
 ――切れた。
 友人菊池忠士、言うにこと欠いてピザ屋はねぇだろう、不自然極まりまくってるやん。勘弁してくれよ……
 俺はドアを開け、逃げたこととピザ屋の注文の言い訳を考えながら、部屋へと向かった。


 ☆


 さて、改めて廊下を見渡してみると、ここは家屋の最上階だと分った。すなわち、下る階段しかない。一般的な家屋の構造から考えると、ここは二階か三階だろう。五十鈴さんと逃げ出すとすると、窓からの脱出は厳しいとみた。俺は眉間に皺をよせ、頭痛がしてくるのを耐えながら部屋に戻る。
 すると、ドア越しから鈴鹿先生と五十鈴さんの声がしてきた。特徴のあるアニメっぽい可愛いらしい鈴鹿先生の声と、大人っぽい甘い五十鈴さんの声だ。
「ちょっと先生……ヤダ、ヤダったらぁ」
「むむむ、五十鈴君、そいつを私によこしなさい。それは我が君の大事なものだ」
「そんなこと、いったって……」
「さあ、早く、早く」
「そんなこと言ったって、アンタが奪いにくるから、あたしたちベトベトじゃない!」
 ベトベト、何してるの? 
 一体どうなっているんだ、想像するに……俺の何かを奪い合って揉み合っている、しかも裸で。さらにそれを高画質ハイビジョンキャメラで撮影中――と。
 このまま放っておけない。
「もう、イヤァ! 鈴鹿先生アッチ行ってよぉ~馬鹿ぁ」
「駄目駄目駄目――五十鈴君、我が君の独り占めは駄目だぞ」
「ちょっと、あっやん。そんなとこ、さわんないでよ……あぅ、ううぅ」
 マズイ、俺は急いでドアを開けた。
「すみません、あまりにもトイレに行きたくて」
「きゃっ!」
「おお、我が君待っていたぞ、さささ、先ほどの続きをば。まあ、見る限り五十鈴君と戯れていたのだが、なかなかに五十鈴くんの――ふくよかなむっちりバディは、感触豊かで気持ちが良い」
「ちょっとぉお、なにゆってんのよ先生。あ、アンタが襲ってこなかったら、こんなことにはないってないわさ」
 ふるふると五十鈴さんは、鈴鹿先生に指を差して打ち震えていた。
「あああん、もう。アンタ何みてんのよ! 男だったら目を逸らしなさいよ、馬鹿!」
 さっと、ベッドのシィツに包まる五十鈴さん。鈴鹿先生は裸を曝け出したままベッドの上で、ゴロゴロと寝転がっていた。あかんべをする五十鈴さん、だけどもじもじと身体をよじらせて、頬を高揚させていた。
 何だこの惨劇は、鈴鹿先生は戯れていたといっていたけど、やっぱり二人して揉みくちゃだったのか? ふくよかなむっちりバディの五十鈴さん……左手に感触残るむっちりとした質感。はうぅ……俺がトイレに駆け込んだ後、五十鈴さんで出した何かと、ベトベト、むっちりふくよかバディ、鈴鹿先生と五十鈴さんのお戯れ。繋がる一つの接点は……
「鈴鹿先生、俺が居ない間に何やってたんだよ!」
「そうだな、ツンデレ五十鈴君とエロエロプレイ、もとい我が君の残した大事な物と五十鈴君とマッスルドッキング」
「マッスルドッキングって、ドッキングしてどうすんだ! ネタも古いし」
 ガツンと鈴鹿先生に突っ込んだら、鈴鹿先生は眼をキョトンとさせて、中指を突き出した。――だから、そこは親指だろうが。そうして、ずるずるとベッドからゆったりと降りてきた鈴鹿先生は、幼いチビロリ萌え体形を魅せつけながら、俺に抱きついた。
「うん……そだよね、マッスルドッキングしちゃぁイケナイよね。だあって……マッスルにドッキングするのは、我が君とだもんっ」
「うわっあ、鈴鹿先生キャラ変わってる! ちょっと待って」
 ガッツリ図書委員ロリキャラを発揮する鈴鹿先生。真正面から俺に抱きついて、胸に顔を埋めた。
 きたねぇ、ヲタクの心理を弄びやがる。そのバディとフェイスと、舌足らずな口調で言い寄られたら抵抗出来ない。
 さらに埋めていた顔をあげたロリ状態の鈴鹿先生は、俺を上目遣いで視線でうるうると瞳を潤ませる。
「凄いよ我が君……おっきくなって、私のお腹をガンガン突くの」
「あああ、あああ、あああ……」
 鈴鹿ロリッ娘先生、優しく撫でるのは止めてくれぇ。菊池ぃヘルプ、ヘルプミィKIKUCHI――俺は、この負け戦《いくさ》に、立ち向かって行かなくてはならないのか。
「くっくっく……裸にシャツ一枚じゃあ、お前には厳しいか。ピザの配達とか言ってる場合じゃねえよな、待ってろよ今いくから」
 なにぃ! 何処からか菊池の声がしたぞ。どうなってるんだ……
 すっと俺のシャツの間に入り込んだ鈴鹿先生は、出来るだけ身体をシャツで隠しながら、ベットの横にある窓を見つめた。五十鈴さんは、頭を抱えながら、しょうがなさそうにもぞもぞと、シィツに包まりながら壁に背を倒した。
「行くぜシャア! もとい相棒。コアファイター機アムロ逝きま~す」
 ヘヤッ! という、俄然ヤル気な菊池の掛け声が飛んだ。
「マジで……」
 刹那――ガシャーンという衝撃と共に友人菊池、保育園からの腐れ縁、長年の悪友、ヲタク同盟、菊池忠士が――窓を突き破って登場した。
「ドミノピッツア菊池忠士、只今参上! 積年のライバル兼親友よ。くっくっく、後の事なんか、なーんも考えてねぇよ」
「おお、おお、派手な登場だなぁ。我が君の友人菊池とやら、今日は長い夜になりそうだ」
 頭から窓に飛び込んで、粉々になった窓ガラスと共に登場した友人菊池は、ベットから転げ落ちてフラフラになりながら、よろけて立ち上がった。
 ぬめりと儚い虚空の窓から、現在の何ともいえない状況の生暖かい風が入り込んできた。夏の始まりを知らせる蝉が、夜にも関わらず時間を忘れて鳴いていた。
「あ……うん、菊池、その」
 俺は言葉を飲み込んだ。しかし鈴鹿先生は眼鏡をくいと上げて、何気に楽しそうに呟いていた。
 俺は流石に言葉を失った。ベットに居る五十鈴さんは唖然として、ツンデレ属性としても、やはり突っ込む気力を失っていた。
 蒸した微風がカーテンを撫でつけて、波打っている。そうだ、夏が……夏が来るよクルーの皆。



 Finale.Endless Summer Nightaholic Otaku Requiem.
 突き破った窓から外気が入り込んできて、室内はむわっと蒸し暑くなってきていた。その中で、俺を入れて四人は菊池の登場で――数分間固まっていた。今までに、俺はこの激しく揺れ動くスピード感溢れる展開にはついていけず、固まってしまうことで、やっと少し落ち着くことが出来るようになった。
 二度目になるこの部屋は、殺風景な空間の中にベッドと箪笥と机があるだけだった。他に何もなく、物が無いから散らかりようがないと、いった具合に物寂しく思えた。ベッドにはアイボリィの無地の上布団、五十鈴さんが身体を隠すのに使っているシィツは、パリッとした白、中央にはアクリルボードのちゃぶ台に、壁際では黒い勉強机、生活感はあるが一人で居ると胸が詰まりそうだった。
 その黒の机に飾られていた写真立てが眼に入った。――子供三人の写真、幼稚園児らしき男の子が二人に小学生ぐらいの女の子が一人、前で笑う悪ガキ二人の肩を抱いて、後ろでにこやかに笑顔を浮かべる女の子の写真――褐色に色焼けした古い写真。
 眼鏡を掛けた後ろの女の子は、うっすらと鈴鹿先生の面影があった。幼い頃の鈴鹿先生の写真、じゃあこの部屋は鈴鹿先生の部屋……物憂いしさが漂っている。訳のわからない、無駄にテンションの高い鈴鹿先生のイメージとは、似ても似つかわない部屋の様相だった。
 って俺は、鈴鹿先生のキャラクターの奥に、何か理由があるんじゃないかと考えていたら。なにやら胸の中に居る鈴鹿先生が、くねくねと……
「もう! 先生。この状況にも関わらず、自分の股の間にあてがうのは止めて下さい」
「ケチンボだな君は、減るもんではなかろうに」
 ううう、ちょっと当たって、気持ち良いのが厳しい。あう、先生……ホントに勘弁して下さい、俺の手を取って胸に当てるのも反則ですって。
「我が君、よくよく考えてくれ。そこに手がある、そこに愛すべきものがある、どうするか? 決まっているではないか――胸に手を当て愛すべきものを慈しむ、輪廻を繰り返す生物の正常なまでの行為だ。心理であり定説、どう抗おうともだ。我が君、目の前に山が在れば登るだろ? 理由は簡単だ」
「そこに山があるから」
 すかさず友人菊池が突っ込んだ。
「ほうほう菊池君とやら、なかなかの手練れだな」
「その手のボケはジェットストリィムアタックに突っ込む、俺のヲタは伊達じゃないぜ!」
 友人菊池、ヲタクは関係ないだろ! 
 これはまずい、助けを求めて友人菊池を召還したがキャラが被って暴走し、菊池が鈴鹿先生弐になりそうだ。おそろしく面倒臭いぞ、これ。
 調子に乗った菊池が鈴鹿先生に畳み掛ける。
「知っているか、鈴鹿先生。キャベジンの名前の由来はキャベツから来ていることを、しかもキャベジンの後に出たキャベツーの由来は、キャベジンではなくプルツーから来ていることを」
「本当なのか友人菊池! まさかプルツーだったとは……」
 先生信じてる! 鈴鹿先生信じてるよ。
 ってか、嘘に決まってるだろ! 出してきたところがプルツーってガンダムヲタクしかわかんねぇし。そもそもキャベジン関係ないし、プルツー出したいだけやんか。
 俺は、おおおお――と感心しきりの鈴鹿先生を他所に五十鈴さんに視線を流すと、なんのこっちゃと肩を竦めていた。そりゃあこんなネタ振られても分かる訳ない。このままでは、意気投合した二人が悪乗りして――特に菊池が――脱出できないかも知れない。何しに来たんだ友人菊池。
 とりあえず何か話題を逸らすために、俺はさっき見た写真立ての話題を持ち出した。
「鈴鹿先生、机に置いてある写真は、若きし頃の先生ですか?」
「んん……ああ、私だ。」
 シャツの間に包まっている鈴鹿先生は、ずり落ちていた眼鏡を定位置に戻し、少し翳《かげ》りのある声色で答えた。鈴鹿先生の一言で、笑い先行の雰囲気は一転しシリアスな場面に染まった。
 俺もアニメの展開通り、無意識に聞いていた。「その写真に、何かあるんですか?」と。
「まあ……ね。まっ他愛もないことだが、友人菊池君も居ることだし、聞いてくれるか? かなり、だいぶ、いや壊滅的に話しが長くなりそうだがな」
 鈴鹿先生の立ち過ぎたキャラクターに俺たちは呑まれ、無言で首を縦に振っていた。するりとシャツの間から抜け出した鈴鹿先生は、裸のまま五十鈴さんが居るベットに腰を下ろした。すらりとした華奢な裸体に反応することもなく、違和感なくそこに居られるのは、この雰囲気と鈴鹿先生のオーラに包み込まれていたからだろう。
 窓から入り込む微風は、鈴鹿先生の三つ編みをなびかせる。鈴鹿先生は長くなる、といっていた話しを語り始めた。


 ☆


「我が君好きだ。以上」
「みじかっ!」


 ☆


「まあ、お約束はやっておくとして、我が君――ナイス突っ込み。瞬発力、判断力、間、完璧だったぞ。このまま何ごともなかったかのように話を進めるが……まず写真のことだったよな」
 これまでの一連のコメディ展開はなんだったんだろう、と思わせるほどに鈴鹿先生は、静かな立ち上がりで語り始める。そしてニヤリとほくそ笑んで苦笑した。
「通常ならばここで一発ボケを被せるところだが、安心して流されるまま聞いてくれ」
 息を呑んだ。
「私が小学校の頃――隣の金持ちの家の庭で、毎日年下の男の子二人が遊んでいた。当時流行っていたガンダムというアニメの遊びをしていたらしく、私はアニメなど観ていなかったから、それは何のゴッコなんだ? と聞いた。そうすると、
『ガンダム知らないのかよ、ダセーな』
 といわれ、もう一人の男の子に、
『シャアとアムロがロボットに乗って戦うんだぜ』
 といわれた。何のことだか分らないうちに、
『おねーちゃんララァやってよ』
 と、もはや――そのアニメを観ていなかったら日本語としてどうか? という所まで来ていた。仕方なく私は、勉強して、明日、そのララァという役をやるから。そういって庭の柵越しに手を振って、部屋に戻り、手当たり次第に友人に電話を掛けて、ガンダムの内容を調べた。一応、五十鈴君が居るから、分らない人のためにガンダムの大筋を話すとして、
 機動戦士ガンダムはジオン軍と連邦軍が戦争するという話しで、最終的に連邦軍が勝利するといった形で終結する。そのジオン軍のシャアという人物と連邦軍のアムロという人物がライバル同士にあって、戦争を通じてララァという女性を取り合って戦い合う。ついでにいうと、巡りあい惹かれあい、わかりあえる。そんな女性がララァという人物だった。
 そして、隣の男の子はシャア役とアムロ役に別れて遊んでいて、私にララァ役を頼んだ訳だ。翌日私は学校から帰宅し、すぐに男の子に声を掛けてガンダムゴッコをしていた。
 それが、その当時の写真。思い出の二人……そう、そこの二人だ」
 キラリと眼鏡が燦然《さんぜん》と輝いた。
 微かによぎるガキの頃の記憶。菊池の家の庭で遊んでいたのは覚えていたけど、そういえばララァが居たような記憶が蘇っくる。菊池んちの隣のお姉さんは、確かに眼鏡を掛けていた。そして突如居なくなった、引越ししたんだ。あの日、菊池が泣きながら、ララァが居ないとアムロは何も出来ないよぉ、と二人で遊んだ記憶がある。
 ――俺がシャア。
 ――菊池がアムロ。
 そして鈴鹿先生がララァ――
「じゃあ、鈴鹿先生を踏んだ時にみせたアザって、冗談じゃなかったんだ」
「うむ、流石に痣は残っていないが、我が君のいう通り冗談ではなかった。まあ、痣自体は無かったもので、からかうだけになってしまったがな」
 そうだったんだ。鈴鹿先生の、この訳の分らない、ふざけたキャラクターを作ってしまったのは、俺らが遊んでくれと誘ったから。
「じゃあ俺たちが引き金で、鈴鹿先生がヲタクの道に走ったんですか?」
「そう、ガンダムを知ってから、私もアニメに没頭した。ヲタクというのを理解した訳だ」
 すると、おかしい……どうして俺の前でこのキャラクターになったんだ。普段講義している鈴鹿先生は物静かで、ヲタクとは程遠い感じだったのに。
「じゃあ何で俺の前だけ、講義と違うキャラクターなんだよ」
「それは……だな」
 畏《かしこ》まった鈴鹿先生は三つ編みを摘まみ、真剣な眼差しを俺に送った。
「私はヲタク心を理解した、まではいっていたな? このフェイスとバディとこのアニメ声、その時点でヲタク達が群がってくることは解っていた、実際に学生時代はそうだった。現在はファン倶楽部まである。
 さらに、この性格と口調を周りに知られてしまうと身動きが取れなくなる。その結果、愛おしき我が君と出逢うまで封印していたのだ。これ以上、喜ばせるのは我が君で十分だ。我が君に迷惑をかけるのも忍びないからな、学食で声を掛けなかったのも、そのためだ。
 で、あるからして……我が君に出逢った時に、本来の私に戻った訳だ。
 さらにさらに、あの場所――非常階段で寝ていたのも確信的だ。我が君が毎日使用していると小耳に挟んでいたのでな、私はあの場所で陰干しされていた。
 即ち、陰干しは陰干しで、それはそれは気持ちが良いものだよ、ワトソン君」
 嗚呼……だから鈴鹿先生は非常識にも、非常階段で昼寝をしていたんだ。
 もう俺は、先生がボケても突っ込めないほど胸を打っていた。この殺風景な部屋の主、過去の俺たちに向けられた想い、ヲタクを貫き通した学生生活。あの壊れきった鈴鹿以下略属性先生の背景には、重い棺が引きずられていたんだ。
 完全に鈴鹿先生に呑まれた俺は、お約束的な展開にベタな心理となってしまっても、しょうがない。それほどに、鈴鹿先生の過去の重荷が俺たちを締め付ける。
 完全に堕《や》られた。これじゃあ俺は、鈴鹿先生を放っておけない。ここまで聞いたら、俺がララァの漢になるしかない。
 五十鈴さん、俺、貴女のこと好きだった。けど、鈴鹿先生と一緒に居なくちゃいけない、それが罪滅ぼしであり、これからの自分なんだ。
 ――この時の俺は、確実に脳から危険信号が発信されていたと思います、何度も繰り返すようですが、完全に脳が逝《や》られていました。それほどまでに鈴鹿先生のオーラが、空間が、外圧が、俺を絡め取っていたんです。ついでに菊池も逝《イ》かれてました――
「先生……鈴鹿先生。ガキの頃の名前で呼んで下さい。俺、鈴鹿先生と、ララァと一緒に居ますから、先生!」
 さあ呼んでくれ! シャアと呼んで俺の胸に飛び込んできてくれ! 先生、これから俺は貴女のことを愛していこうと誓います。
 鈴鹿先生はその生まれたての、ピュアな姿で立ち上がり、その名を叫んだ。
「アムロぉぉぉぉおおお」
 ん? アムロ?
「え? 俺?」
 友人菊池が振り向いた。菊池は自分に指を差して、きょろきょろと辺りを見渡していた。
「アムロ……菊池君、貴様が」鈴鹿先生は固まった。
「ア、アムロ……俺、アムロ、お前は」
「あ、ああ、シャア……俺シャア、菊池は?」
「ア、アムロ」
「鈴鹿先生、三つ編みソバカス眼鏡チビロリナイ乳派自称清楚な鈴鹿毒舌萌え要素満載先生の、愛して止まない想い出の男の子は? 菊池」
「アムロ――フルネームでいうとアムロ・レイ。お前は?」
「シャア、ついでにいうとアズナブル」
 三人が三人共、溜め息を深く吐いた。頭を抱えつつ、俺も含めて三人の馬鹿はベットに腰掛けた。
 ――鈴鹿先生、すこぶる人違いですよ。
 石ぶつけたのは幼い頃の菊池やん、おかしいとは思っていたんだよ。ここにきて、もっともベタな落ちが待っているとは思わなかった。
 静まりきった、気だるい雰囲気が漂う室内。鈴鹿先生は無言のまま、箪笥へ足を運び、衣類を取り出して着替え始めた。真っ赤な夕日に感傷し黄昏れるように鈴鹿先生は、男物のパジャマのシャツを羽織ったところで、ポツリと呟いた。
「やっちゃった?」
 友人菊池《ヲタク》、俺《ヲタク》、五十鈴さん《妹がヲタク》、全員で頭を縦に振った。
 俺は友人菊池の肩をぽんっと叩いた。
「なあ菊池、学食でいってたみたいに、鈴鹿先生と盗んだバイクで走ってこいよ」
 ゆうっくりと立ち上がった友人菊池は、頭を掻きながら呟いた。
「そのあと――夜の校舎、窓硝子、壊して回るよ」
「さらに、鈴鹿先生というオン・マイ・リルガールを暖めてやってくれ、菊池」
 爽やかな笑顔を振り撒き、鈴鹿先生を得て大人になった菊池は、ふぁさりと髪の毛を掻きあげた。
「サンキュウな、お前のサマー・ナイト・クリスマス、確かに受け取ったぜ!」
 俺たち二人は、軋むベッドの上で優しさを持ちより、いや視界が霞《かす》むベッドの上で激しく抱き合い、自然と込み上げてくる詩《うた》を奏でた。
「――この支配からの、卒業」
 俺、この――鈴鹿先生――支配から卒業しました。


 ☆


「おい、そこに居るヲタクの代弁者、ちょっと待て。尾崎豊で纏《まと》めて落とすな、馬鹿者。終わらせはせんよ」
 綺麗に尾崎豊の楽曲繋がりで落ちたと思ったんだけど、駄目ですか。あまりにも酷すぎる結果で、俺と菊池は現実逃避をしていた。もはやこの選択肢しかない、と俺は言い切れる。だけど、菊池は。
「アレですよ、一区切りついたと思ったんですが、なあ? 菊池」
「そうそう、この微妙な勢いのまま、鈴鹿先生ファン倶楽部の面々を盗んだバイクで蹴散らそうと、そう貴女と共に」
 ニカッと大人菊池が真っ白の歯茎を、射し込める蛍光灯と共に、キラリと輝かせた。
 俺は数々の落ちの先にある最終落ちが、人違いというあまりにも衝撃的な落ちで、鈴鹿先生の呪縛から解き放たれた。しかし、大人菊池は未だ鈴鹿先生にヤられていた。知らない間に大人菊池は、盗んだバイクで蹴散らすほどにファン倶楽部の面々と戦う自信をつけ、鈴鹿LOVE先生の夢という名の希望を見出していた。
「そっかなぁ、尾崎落ち、良いと思ったんだけどなぁ……そうそうセンセッ、菊池君と仲良くして下さいね」
「五十鈴さんっ」
 身に着けている純白のシィツを翻し、沈黙していた五十鈴さんが、満を持して登場した。
 五十鈴さん居たんですよね。突如の五十鈴さんの登板だった。
「あたしの妹がヲタだっていったでしょ、ボーイズラブの関係で尾崎は知っているわよ。あたしだってBL読んでるし……」
 尾崎ってそっち系だったの! それより、五十鈴さんもヲタなんですか? だからこれまでの流れに、五十鈴さんは乗っていたのか。妹と姉も、BLにはまっているとは思わなかった。
「そんじゃあ、帰るわよ。先生は菊池君と、アンタはあたしと来るのよっ、分った!」
 勝ち誇った面持ちで、五十鈴さんは俺を呼んだ。――すかさず鈴鹿先生は、五十鈴さんを制止する。
「ちょっと待てといっておろうが。ことは緊急を要する、色々あったが私は在る結論に達した。結果として、菊池君には申し訳ないが、やはり我が君とは離れられない運命にあると、断言できよう」
「先生、おもいっきし負け惜しみじゃない! いいから帰るわよ」
「ふふふ……そうそう私から逃げられるものではない」
「え? ちょっ――ちょっと待ってよぉぉぉおおおお」
 イキナリの五十鈴さんの悲鳴、何ごとかと思いきや、鈴鹿先生が包まっているシィツの裾を持っていた。鈴鹿小悪魔的ちょいエロ先生、ヤル気なのか? 止めなければ、五十鈴さんが危ない!
「先生――それはやり過ぎで」
 俺が言い終わる前に、ふぁさりと。シィツが絨毯に落ちた音がした。
 硬直した五十鈴さんの、むっちりとしたバディが露《あらわ》になった。そしてしばらくの沈黙が流れた……
「あああん、もう! アンタなにみてんのよぉ、こんぬぉお――ばかぁ!」
 身体をよじった俺は身構えた。しかし、いつもの五十鈴さん渾身のビンタ、黄金の右が飛んでこなかった。ドカシと轟いた衝撃が俺の横で、はじいた。
「なんで俺なんだよー関係ないじゃんよぉ」
 大人になった菊池忠士、ただのヲタクが吹っ飛んでいって、ベットにぶつかり跳ね上がり、壁に衝突した。
「きくちぃ、お前はみるな! あ、アンタは、あんたは、しょっ……しょうがない、わよ。事故、事故だから許してあげるわよ、馬鹿」
 頬を赤らめた五十鈴さんは、急いでシィツをたくしあげ、ベットの中へ潜り込んだ。可哀相な菊池は、壁に激突してズルズルとベッドに流れ込んだが、五十鈴さんに蹴られ、床で廃人と化していた。
「でだ、我が君」
 生きた屍と化している友人菊池を他所に、鈴鹿先生は例の在る結論を語る。
「確かに、足元に転がっている菊池ことアムロが石を投げて、私の最愛の人になっていた。だがしかし、私の中であの記憶は、我が君の顔をした男の子が投げたことになっている。即ち、記憶は改ざんされ隣の金持ちのボンボンは我が君に変身を遂げている。もはや、大学で君に始めて目撃した時点で愛する我が君は、そう君だ。ともかく、約十年間ほど君のことを想い続け生きてきたんだ。事実関係は破棄して、結果つじつまさえ――合えばいいんだ」
 そういい終わると、鈴鹿先生は自信満々に頷いた。
 この惨劇に俺は――何かこの二日間、もの凄く報われねぇ。これでいいのか? おい。壊れた堕天使菊池忠士、酷いぐらい報われねぇ……もう、ここへ何をしに来たのかさえ解らない。ありえないほど虚しさを覚えた。
「さあ、楽園都市ヴァルハラに逝こうではないか、我が君よ。愛と勇気と希望が待ち受けているぞ」
「ちょっとアンタッ、この状況なんとかしなさいよ!」
 甲高い声が飛び交い、何かが切れた。
 俺は大人になりそこねた菊池の肩を抱いて立ち上がった。
 強者《つわもの》どもが夢の跡、初夏に訪れた終らない夏に狂う強者《ヲタク》は、一体何処に向かうのだろうか。鈴鹿先生宅の周りに取り囲むファン倶楽部、蒸し暑く鬱陶しい、イカレた夏が到来する。
 そして――気がつけば菊池と共に口ずさむメロディ、ヲタク達の鎮魂歌。
「卒業して一体何解ると言うのか。想い出の他に何が残ると言うのか。人は誰も縛られたかよわき子羊ならば。先生アナタはかよわき大人の代弁者なのか。俺達の怒り何処へ向かうべきなのか。これからは何が俺を縛りつけるだろう。あと何度自分自身に卒業すれば。本当の自分に辿り着けるだろう。仕組まれた自由に誰も気付かずに。あがいた日々も終る。この支配からの卒業。この闘いからの卒業」


 Endless Summer Nightaholic Otaku Requiem.


      了

  1. 2007/01/10(水) 18:02:11|
  2. 中編作品|
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holy・night・fever

 素直クール系物書き様で、大変お世話になっているcoobard様のサイトが、十月で祝一周年になりました。お祝いにcoobard様が書いていらっしゃいます黙クールシリーズ《モクール》の二次をプレゼントすることになりました。が、しかし……現在十一月、既に一ヶ月を経過していますが、いまだ書き終わってはいません。(汗)
 予定では三十枚のつもりでしたが、前編で既に約三十枚。後編で、更にオマケ入りで三十枚に達しそうなので、ちょっとした中編になってしまいそうです。一応来週中には書き終わる予定なので、しばらくお持ち下さい。(ペコリ)


 ~追加~ 11/22深夜、やっと完成致しました。十一月中に完成しまして、ほっと胸を撫でております。オマケSSはこれからですが……


 素直クール作品の安定した供給、毎週木曜日早朝更新中――クーのいる世界
 黙クール短編 “黙して伝えて”“ポワソン・ダブリル”“ジル・オ・ランタン”
 このhory・night・feverは時系列的に“ジル・オ・ランタン”の次になります。番外編なので、ご容赦下さい。


 ではでは、祝一周年記念。黙クールシリーズ番外編“hory・night・fever”スタート。


 クーさんがチャットルームに入室しました。
 マミさんがチャットルームに入室しました。
 マミさんの発言:クーさんこんばんわです。最近どうですか?
 クーさんの発言:旦那と仲良くやってるよ。
 マミさんの発言:幸せそうで良かったです。今日は急に呼び出しちゃってスミマセン……(汗
 クーさんの発言:いや、いいよ。今日はどうしたの?
 マミさんの発言:親友のシズカいるじゃないですか、昨日彼氏と喧嘩しちゃって今日も泣いているんです。
 クーさんの発言:そりゃ辛いわな、何があったの?
 マミさんの発言:今横にシズカいますから、ちょっと代わりますね。
 クーさんの発言:了解。
 マミさんの発言:お忙しい所スミマセン。以前教えて貰ったスケッチブックなんですが、ずっと使用していたんです。でも昨日、国友君にスケッチブックに頼って、話す努力をしていないんじゃないかって。
 マミさんの発言:そう言われました。
 クーさんの発言:そう。私は言われたこと無いけど、色々考えてみようか……
 マミさんの発言:ハイ、お願いします。
 ――僕はここまでを見て、ブラウザーを終了させた。




 1.
 窓を開けると冷たい風が入ってきた。少しばかり遅い紅葉が始まり、秋の風情が感じられた。十一月を迎え、モスグリーンの空は何処か物憂いしさを与えてくれる。満たされているはずなのに、何故か穴が開いたような感覚に囚われていた。
 理由は分かっている、A4のスケッチブックだった。十二色のカラフルな水性ペンは可愛らしく、アイツにはピッタリだったが、それすらも鬱陶しく思えていた。しかしアイツのことを考えると、スケッチブックや水性ペンのことは言えない――アイツなりの頑張りを否定したくはなかった。
「とりあえず、寝るか……」
 六時間目の授業を放棄して、僕は眠りについた。ほどしてクラスメイトによって窓は閉められて、英語教諭による心地よい英単語の羅列オンステージが繰り広げていた。徐々に、ほのあたたかくなり、入れ替わった新鮮な空気は僕の鼻についた。柑橘系の乾いた、秋の香りがした。
 HR終了後、僕は鞄を攫い教室を出る。少し廊下を歩くと、背後から声を掛けられた。相川マミ、甲高い耳鳴りのする声色だ。
「ちょっと待ってよ国友、シズカが一緒に帰ろって」
 振り向けば、そこには大股を開いて仰け反った相川と、自然体に在する周防シズカだった。毅然とした姿勢で僕を見詰めている。
「今日は一人で帰りたいんだ」
「最近いつもそうじゃん」
 こう毎日顔を付き合わす相川に飽きた僕は、視線を逸らした。その先にはシズカがいる。目が合うと、頬をほころばせ微笑を浮かべた。
「そういう日もあるの」
 強い口調で相川に言い聞かせ、二人に背を向けた。きゃいきゃいと相川が何かを吠えていたが、僕は背を向けたまま、ひらひらと手を振った。すると程した頃シズカからメールが入った――明日は一緒に帰りましょう――とある。
「三人で……だろ」悪態が口から零れていた。
 携帯の待ち受けになっているシズカのコスプレが目に入ると、自然とニヤケていた、この前のハロウィンで、魔女に変身していたシズカのデータ。しかし、すぐに熱が冷めた。僕は――明日になんないと分らないから――と、返信した。
 そういえば最近、相川としか……喋った記憶がない。シズカの声って、どんな声だったっけな? 僕の中で、シズカは忘却の彼方へ飛び去っているように思えた。


 ☆


 自問自答を繰り返し、僕は薄暗くなった公園のベンチにいた。シズカと付き合い始めて約八ヶ月、正直本当に好きなのかが疑問に思えてきていた。
 シズカのことを想像する、整った面持ちの綺麗な人。黒のロングヘヤーに楕円形の黒縁眼鏡、シュッとした切れのある美人だ。はっきりいって、シズカには僕なんかは役不足だろう……適当な男は吐いて捨てるほどいる、そのぐらい僕のレヴェルは低い。根底に不釣り合いという土台がある上にスケッチブックの存在。マイナス要因が加味して、僕相手に会話なんて出来ない、と鼻であしらわれているような気さえする。違うのは解ってはいるが、シズカは、気持ちが表情にあまり出ないから真意が読みづらい、僕は確信が持てなかった。
 だからって冷たく当たるのも、どうかと思うけどね。と自嘲して、ベンチに横たわった。
 額に手をかざして空を見上げる。鬱陶しそうに木々が風に流され、葉を散らしていた。灰色の空は、一向に月の出る気配はなかった。
「マジで、あのスケッチブックがなぁ……」
 このままでいくと、スケッチブックがあればそれでいいと、シズカは思ってしまうかもし知れない。僕と話す努力を、止めてしまうかも知れない――一番危惧している所だった。
 根底に負い目がある僕は、例のスケッチブックで会話は十分だと思われる懼《おそ》れと、スケッチブックでシズカの成長を妨げてしまう惧《おそ》れが入り雑じっていた。
「なにしてんの?」
「へ?」
 すっと視線を声の方向へと持っていった。
「こんなところで」
 うちの制服の、プリーツスカートが見えた。肉付きの良い太ももがあった。キィの高い声、相川だった。
「考え事」
「シズカのこと?」
「――そう」
 ベンチから体を起こすと、相川は横柄に隣へ座り込んだ。相川には失礼は話しだが、接すると人肌が暖かかった。誰でもよかったような気がする、かなり気持ちが荒んでいると自覚出来た。
「国友ぉ、最近シズカに冷たすぎるよ」
「知ってる」
「なんでさ」
 僕は少しの時間、押し黙った。僕の気持ちを全て話そうか、と思ったが止めた。いくら相川に、僕の感じていることを伝えたところで、結局当事者の問題だ。僕とシズカで解決しないといけない話だ。
「僕らの問題だから」
「私にだって関係あるよ、このままだったらシズカが可哀相すぎるよ」
 それは解っている、そっとしていてくれ。相川にグダグダいわれる筋合いはない。
「五月蠅いな、その関係者面がムカつくんだよ。相川……お前シズカの通訳か? 保護者か? 彼氏気取りか?」
 無言がつづいた。相川は下を向いたまま黙り込む、両手は膝の上で固く結ばれている。
 薄暗くなってきていた公園は夜になり、備え付けられている街灯はパチパチとグロウに火が入り、辺りを光で滲ませる。昼間と違い、夜は肌寒くなってきていて、僕は掌に白い息を吐いた。
「なあ相川、多分お前と喋っている時間の方が、長いんだよ」
「そうかな……」
 背中を丸めた相川は、下を向いたまま、ぼぞぼぞ呟く。
「傍から見たら相川と僕が付き合ってて、シズカは友達にしか見えないぜ」
 相川はビクっと身体を軋ませた。そうして体を起こし、感情のこもらない苦笑を浮かべる。「そうだね」と、力の入らないしらけた言葉を残すと、ベンチから立ち上がった。
「国友、また明日――」
「あ、ああ……」
 ジッと据えた視線を僕に飛ばす、相川は何も言わず立ち去っていった。否応なく自責に追い込まれた僕は立ち上がり、ベンチに蹴りを入れた。ただ鈍い衝撃がするだけで何も変わらなかった、何度も蹴る殴るを繰り返したが何も変わらない。ベンチは凹みもせず、木屑の一つも落とさず、僕の身体が痛いだけだった。
 ベンチの状況は一向に変わらず、ただ僕が遠吠えしている、それだけだった。



 2
 翌日から環境は変化をした。が、それは僕と相川とシズカの三人でいる時だった。当然、相川はシズカと仲良くやっていて、僕とシズカは相変わらず文字でやり取りを繰り広げていた。そのうちスケッチブックを買ってきてやろうか、と考えたが、そこまでリスクを負う根性も、僕にはなかった。
 いつものように睡魔が襲う六時間目、歴史の授業の最中――僕は戦国武将のように睡魔に闘いを挑むつもりもなく、社会科教諭による小牧長久手戦の実況中継を聞き流しながら、また眠りについていた。
 HRをすっ飛ばし、僕は放課後、陽が暮れるまで寝ていた。いつもなら相川が無理矢理叩き起こすものだが、今回は静かなものだった。自発的に起きた僕は辺りを見渡すと、隣で目尻を緩和させたシズカがいた。僕をいつくしむように眺め、ほころんだ面持ちは嫌《いや》に満足気だった。シズカは、僕の髪を指先に絡ませて遊んでいる。呆けたシズカの手首を握り、顔を詰めた。
「相川は?」
「帰ったよ」
 急に腕を掴まれたシズカは、その表情を強張らせ、ぴたりと固まった。直後、シズカは力一杯に腕を引いた。手首には赤い手跡が残っている。普段にない嫌な沈黙、シズカが何かを言い出そうとして待っている沈黙とは違い、お互いに何も言い出せない、微妙な空気感。
 僕は打開しようとした矢先、以外にもシズカが口を開いた。
「じゃましちゃ……わ、悪いからって」
「相川が?」
 シズカは、深く頭を下げた。そうしてもぞもぞと、鞄からA4のスケッチブックと十二色の水性ペンを取り出す。艶やかな黒髪がスケッチブックにかかり、指で髪を掻きあげる。眼を凝らし自分の世界に没頭したように、十二色の水性ペンを綺麗に使い分けた。鮮やかな色彩が紙に載る、可愛らしいイラスト入りの会話文が出来上がった。
 ――へんなの、いつもなら気にしないで遊ぶのに、どうしてなんだろう?――
 僕は机の上に転がる十二色のペンを手に取り、文字の下に追加した。
 ――昨日、シズカより相川の方が話す時間が長いから、傍から見たら僕と相川が付き合っているみたいだ。シズカは友達にしか見えないといったから――
 シズカは青いペンを掴み、僕の書き込みの下に、急いで返事を書いた。
 ――急にどうしたの? 変だよ、国友君――
 ――このままだったら、駄目だと思ったから――
 僕が書き終わる前に、シズカは青ペンを転がした。真赤な水性ペンを握り締め、スケッチブックに殴り書いた。
 ――他に方法が無い――
 ただ、それだけだった。
「話そうと、努――」言いかけて僕は口を噤んだ。シズカは“話そうと、努力している”はずだ。と、信じたい。でも、いまここで――話そうと努力しているのか?――と問い正《ただ》してしまうと、全てが壊れてしまいそうだった。
 僕はペンを持った。しかし、不可解なサイケデリックに発色をしたスケッチブックには、書き込むところがなくなっていた。転がる水性ペンを、僕は強引に筆箱へ詰め込んだ。ビニールの筆箱から、真赤の水性ペンが突き抜けていた、カラフルなスケッチブックを掴み、思い切り黒板に投げつけた。
「国友、く……ん」
「シズカの感情が、僕が思っている通りなのか自信が持てないんだ」
 掌が暖かいものに包み込まれた。シズカの手のひらに包まれて、ぎゅうっと――握り締められる。
 一瞬たじろぎ、払いのけた。
「文字だけで解るもんか! 他に方法がないって、スケッチブックに頼ってるだけじゃないか」
「……ごめ」
 シズカの話を聞かず、僕は教室を出た。何かのきっかけで弾けた、一瞬の出来事だった。教室の戸を開けて廊下へ出る、シンと静まり返っていた。無機質でシンメトリィの廊下、足元は風が吹き抜けてひんやりと冷たい。閉め切った戸に、さらに蹴りを喰らわす――ゴッ。戸は傾き、擦り硝子は軋みガビっていた。
 約八ヶ月、蓄積された不満が一気に顔を出す。自分では喋ることが成長だ、として何処か押し付けているのは分かっていた。特定の人間と喋れないことが間違っていること、治さなければならないこと、そう圧《お》し付けている自分がいる。土壌に劣等感がある僕が、一番の問題なんじゃないだろうか……
「ぐちゃぐちゃだ。何が正解で何か間違いか、解らない」
 僕は漫画が好きで、自分でも漫画を描く。アニメだって見るし声優だって好きだ。そんなヲタクは社会適応するようなマトモと呼ばれる人間にならなくちゃいけないのか? ヲタクを卒業すが正解なのか、ヲタクを治すことが成長なのか――シズカもことも、それと同じじゃないのか。
「圧し付けがましいんだよ――ヴォケ」
 一枚の窓に拳を繰り出した。阿呆そうに囀っている自分が映る窓に罅《ひび》が入っていく、ボロボロと頬こけていった。歪んだ自分が映る窓硝子に、最後の一撃を加える。
「死ねよ」
「駄目えぇ」刹那、女の声が響いた。
 窓に映る壊疽した顔が、しょぼったく砕けていった。数秒後――乾いた音が届いた、割れた窓が外に落ちた。
「なんだよ」僕は呟く。
 駆け寄ったシズカは、硝子の破片がめり込む拳を掴んだ。座り込みポケットから取り出したハンカチで、流れ出している赤ぐろい血を拭う。
「イラスト、描くでしょう大事、な手じゃない」
「知るか」
 シズカは、また鞄の中からスケッチブックを取り出し始めた。その山吹色の表紙が眼に入っただけでも嫌気が差す。その取り出すシズカの姿をみると、結局――何も変わらない、何かを攻撃しても変わらない。窓越しに自分を殴ったところで自分すら変えられないと、痛感した。。
 ……くだらない。自分に嫌気が差す、何度目なのか思い出せない。
「シズカ……」
「国友君」
「スケッチブックに頼って、喋る努力をしてないんじゃないのか?」
 どうせ何も出来ないなら、何も変わらないなら、思っていること全てをぶつけた方がマシだ。
「お前――エッチする時も、その限られた枠の紙と、その十二色しか表せないペンで、気持ち良さを書いてくれんのかよ」
「喋れないの、開き直ってんじゃねえよ」
 罵声を浴びせた後、我に返った。直後自責に苛まれる。シズカの眼鏡はずり落ちて、鼻の下部に引っ掛かっている。シズカの瞳から大粒の涙が零れ落ち、涙で眼鏡が滑っていた。眉間に皺を寄せ、眼球を見開いたまま涙を流す。唇を奥で噛み――僕を見詰める。
「ごめんなさい、国友、君」
 僕の手に筆箱が手渡された。皺の寄ったスケッチブックも手渡され、シズカは無言の走り出した。カランカラン――と、無機質な空間に暖かみのある足音が駆け抜ける。その足音は攪拌し、反響して耳に付く。階段に吸い込まれていくシズカの残像が残っているようにみえた。
 使い古した山吹色のスケッチブックと、手垢で汚れたクリアーな筆箱を小脇に抱え、窓の外へ身体を乗り上げた。硝子が腹に刺さり、ちくちくと痛い。僕は木々に囲まれた並木道を上から眺める、校門へと駆けているシズカの姿だ。薄暗くなった辺りは視界を奪い、拳程度のシズカを霞める。前のめりになりながら、逃げるようにして、シズカは並木道を走り抜けていた。



 3.
 翌日の朝は散々だった。ことのほか何もなかったことが、最も散々だった。躊躇して教室に入ったが、普通に挨拶をされた、おはよう――おはよう。ただそれだけだった。相川も何事もなかったかのように、シズカと会話を繰り広げている。少しだけ何かあったというと……相川が「今日はシズカと用事あるから」と、シズカとは一緒には帰れないよと、伝言のような通告を承っただけだった。
 昼食、いつものようにシズカと一緒にご飯を食べる。シズカにアイコンタクトを強いられ、シズカの机に向かった。しかし、昨日のことには一切触れない。毎日欠かさず作ってくれている弁当も、あいかわらず美味しかった。正直……白ご飯の上に海苔でも何でもいいから、馬鹿とでも描いてあったら、まだ気が楽だった。
 ――最高に旨かった。気持ちがこもっていた。それが痛い、痛々しいとも、感じる。
 ごちそうさま、とお互いにいいあって、僕は席を立った。席に戻ると机の中に手紙が入っていた。殴り書いた文字で相川マミとある、中からルーズリーフを開くと――昼休み屋上で待ってるから来い――とあった。振り向いてシズカの方を凝視、シズカはぼんやりと僕を眺めていた。不思議そうにして目をパチパチと瞬いている、シズカの差し金ではないと確信した。僕は屋上へと向かった。
「何? 相川」
 逆光に照らされる相川がいる、影が入りその表情はみえない。痛々しく荒んだ風が気だるくふき、屋上から見渡す景色はアイボリィに染まって陽炎のように歪んでいる。一望すると、褐色の風景に溶け込んだ相川が深く沈んでいた。
「最低だね」
 相川の発した言葉は、コンクリートを這うように振動させて、低く――僕に届いた。
「何が?」
「その辺が――」
 どの辺りが? そくざま返そうと思ったが、やめた。シズカを傷つけた癖に、何が? とかいってる僕が最低なんだろう。そんなこと、いわれなくても解っている。昨日、すでにシズカに逃げられた時点で責めているよ。
「何のこと?」
 一応伺っては、みた。
「もういいよ」
「用事ないんなら帰るよ」
「――そう」
 呟いて、頭を沈める相川。影でよく分らなかったがその影は動き、唇から頬にかけて引き攣っている。
「じゃあ……」
 振り返り、僕は錆び付いた赤褐色のドアを引く。コツン……後頭部に何かが当たった。コンクリートの上を転がる掠れた音がした。拾おうとして手を伸ばした瞬間。
「彼氏じゃなかったら殴ってるよ」
 撥ね退けるようにして、相川は肩をぶつけ去っていった。馬鹿のように大音を立ててドアを閉めていった、その鈍い衝撃が鼓膜を打つ。かさかさと音をなして転がっていくのは、握り潰された紙屑だった。拾い上げ開いてみると、そこにはインターネットのアドレスが書かれていた。後、時刻が書かれてあった。
「ページを開いてみろ、ということかな?」
 再度くしゃくしゃにして、紙屑をポケットの中に放り込んだ。コンクリートには、赤黒くよどんだ錆が散らばっていた、さっきの衝撃だった。そのお陰で重々しいドアは、軋んでなかなか開かなかった。


 ☆


 家に帰ると、僕はPCの電源を入れた。部屋の蛍光灯は点けず、発光するモニターを頼りにOSの立ち上がりを待った。そうしてブラウザーを起動させ、ダイレクトにアドレスを打ち込む。ガリガリと鬱陶しいハードディスクの作動音を聞きながら、そのページが表示されるのを待った。暫しの沈黙――かったるく映し出されたのは、安物臭いチャットルームだった。僕はとりあえず、ROMすることにした。甘ったるい、火傷するほどに熱い缶コーヒーを口にする。唇がヒリヒリと腫れあがる中、茫然とモニターを眺めた。
 ――クーさんがチャットルームに入室しました。
 誰かがチャットルームに入った。クーというハンドルネームは、シズカから聞いたことがあった。暫らくして次の入室者が現われる。
 ――マミさんがチャットルームに入室しました。
 マミ……相川か、一体どうしていいのか分らなかった。どういうことだろう……僕も入室して、チャットで会話をしようということだろうか? しかし、クーという人間がいる。相川の目的がみえないうちは、下手に動けないのが現状だ。いい加減――この二、三日で学習した。
 そのまま、躊躇したまま、書き込みがつづいていった。
 ――マミさんの発言:クーさんこんばんわです。最近どうですか?
 ――クーさんの発言:旦那と仲良くやってるよ。
 ――マミさんの発言:幸せそうで良かったです。今日は急に呼び出しちゃってスミマセン……(汗
 建て前がつづいている、なかなか本題には入らない。既にネーム欄にはハンドルネームを打ち込んでいる、いつでも入室出来る状態だった。缶コーヒーは、やんわりと湯気を立ち上げていた。動向を覗《うかが》い、缶コーヒーを口に運ぶ。
 ――クーさんの発言:いや、いいよ。今日はどうしたの?
 ――マミさんの発言:親友のシズカいるじゃないですか、昨日彼氏と喧嘩しちゃって今日も泣いているんです。
 ――クーさんの発言:そりゃ辛いわな、何があったの?
 ――マミさんの発言:今横にシズカいますから、ちょっと代わりますね。
 ――クーさんの発言:了解。
 そうか、やっと相川の真意がはっきりした。シズカの気持ちを分かってやれ、ということか。僕はネーム欄にあるハンドルネームを削除した。
 シズカが泣いている、あの強いシズカが泣いているとは思わなかった。学校では何事もなかったかのように振舞ってはいるが、内心ではグチャグチャに……壊れているように思えた。
 糞熱い、半分以上残っている缶コーヒーを一気に飲み干す。食道と胃が熱さで悲鳴をあげた、その熱を噛み締めて、食い入るようにチャットの様子に没頭する。
 ――マミさんの発言:お忙しい所スミマセン。以前教えて貰ったスケッチブックなんですが、ずっと使用していたんです。でも昨日、国友君にスケッチブックに頼って、話す努力をしていないんじゃないかって。
 ――マミさんの発言:そう言われました。
 ――クーさんの発言:そう。私は言われたこと無いけど、色々考えてみようか……
 ――マミさんの発言:ハイ、お願いします。
 僕はここで、ブラウザーを終了させた。これ以上、シズカの本心と想いを盗むのはやめた。以前クーという人に教えられて、多分スケッチブックを用意したんだ、今回も同様に何か手を打ってくる、その気持ちだけで十分だ。シズカは何とかして意思の疎通を図ろうとしている、それが喋ることはなく、自分の出来ることで形にしようとしている、スケッチブックだったり違う何かだったりするだけだ。
 僕は机の上に転がっている、0,5mm製図用シャープペンシルを握った。そして引き出しから、丸ペンとGペンの先を取り出す。引き出しの奥には、待っているようにCOPICのマーカーセットが準備されている。
 腐って何も出来ないでいるよりも、ただ暴れているよりも、シズカのように何かしら出来ることをしよう。そう思い、僕はシャーペンを走らせた。丁寧に、しっかりとだ。



 4.
 あれから一ヶ月、暮れも押し迫ってきた十二月の後半――クリスマスを迎える。相川に教えてもらってチャットルームに入った、あの時から描き出したイラストも十枚ほど出来上がっていた。例のスケッチブックに描いたイラストを封筒にしまい、鞄に隠していた。僕はダッフルコートに身を包み、シズカ宅の玄関にいた。
 今にも雪が降りそうなほどに寒い、息を吐き出すと一瞬にして結晶化している、真っ白に固形化してキラキラとしている。そして星は雲と共存し、その輝きを放つ――靄が掛かっているような雲の隙間から、星が瞬いている。エイプリルフールやハロウィンと、年中行事を大切にするシズカの家だけあって、それはちゃんと用意されていた。
 庭にそびえ立つ大木、元気に葉を茂らせて、電飾が施されている。流石に大木の天辺《てっぺん》にゴールドの星はなかったが、ブルーやレッドにイエローとホワイト、電球を点滅させて立派なクリスマスツリィだった。
 僕はインターフォンを押した、良くある四角い型のインターフォンだ、待ちわびていたようにシズカの照れた声が聞こえてくる。一度、電子信号に変換された声は、普段とは違い高音が抜けていた。僕の心臓は、どっくどっくと圧力を掛け胸を貫いた。ただの真四角な黒いインターフォンですら、見違えたように新鮮だった。
「はい、どちら様でしょう」
「国友です」
 シズカは玄関にいる客人が僕だと分り、急に声色が、かぼそくなった。インターフォンにコンバートされた声質は、さらに倍音が減少したかのように弱々しくなった。
「シズカ、入っていいの?」返事がすぐに来ないと思い、僕から切り出して誘導する。
「今、開けます」
 木製の風格あるドア越しから、ガチャリと鍵が開いたのが解った。少し待ってみても、一向に開く気配がなかった。むしろドタドタドタと、どんくさい足音が響いていた。いまでは、それが可愛らしくも思えている。開かないところをみると、シズカは僕が開けるのを待ってるはず、ノブを握り勢いよくドアを開けた。
「お邪魔します」
「いらっしゃい、国友くん――」
 ……トナカイさんがいた。シズカの、しゅっとした鼻にまあるい真っ赤なお鼻が付いていて、頭から二本の角が飛び出している、小さい丸みのある角が二本可愛らしく飛び出していた。
「シズカ」
 僕は靴も脱がずに飛び出していた。
「国友君」
 ハタと驚いた表情、シズカの可愛らしさに、僕はぎゅぅっと抱き締めていた。華奢な身体のシズカを抱き締めると、折ってしまいそうになる。
 しっとりとしたスウェードの感触――クリスマスカラーの、黄色味が掛かる赤のサンタ衣装、ふちぶちには毛羽立つクリスタルに輝いた白いファー、濃紺の膝上丈のデニムのミニ、ぼんぼんがアクセントになった紺のソックス。気が動転するのも頷ける。
「国友君……どうしたの? もう酔ってる?」
「シズカをみたら出来上がった」
 イラストを描きつづけ、相川とシズカと距離感ができて、何事もなかったかのように振舞いつづけた一ヶ月。あのチャットから翌日、二人とも僕に深く入り込まない上辺《うわべ》だけの付き合いがつづいていたんだ、僕の反動が大きくても仕方がない。シズカ、相川の出方を窺いながら待ちつづていた、このクリスマスの招待にどれだけ期待が膨らんだことか。
「相川は?」
「バッ――バイトが終ったら、直行すす、するって」
 僕の胸の中に埋まったシズカが、もじもじと答えた。抵抗しないシズカ、でも逆もない、困ったようにして僕の胸に抱かれている。
「国友く、ん。部屋行こ? 玄関だから、ね」


 ☆


 コトコトコト――静かに、シズカの部屋のドアが開いた。室内は真っ暗で、各家電製品の電子パネル、LEDが色とりどりに光を放っていた。シズカは、僕が来るのをずっと玄関で待っていたのだろうか――室内はひんやりとしていた、足元が肌寒い。
 小走りにシズカは部屋に入り、ホットカーペットのスイッチを入れた。真っ暗闇の中で、シズカはゆっくりとカーペットに横座りをした。徐々に視界が暗闇に慣れて、シズカのフォルムが浮き上がってくる。僕を待っているようだった。
「国友君、ここ……」
「あ、ああ――」
 僕はドアを、しっかりと、締めた。シズカに導かれるように、僕はシズカと向かい合って座った。無表情のシズカは僕を見つめながら、暗闇に同化した黒髪をなびかせた。窓から入っている月光に照らされ、しっとりと潤う唇が艶やかに映し出される。僕は食い入るようにシズカを凝視していた。光が滲むように、てらてらと唇が煌いている。僕の眼が霞んだ、そして脳も霞んでいく……
「シズカァ」
 無意識に四つん這いになった僕は、掌と膝をずるずると擦りながらシズカに向かって進んでいく。近づくにつれ、シズカの輪郭がはっきりとしていく。しゅっとした顔立ち、眼鏡は月を映し出す、髪からはシズカ特有のトリィトメントの香りを立ち込ませ、へたくそなほほえみを表している。
 僕は無我夢中でにじり寄る――胸の膨らみ、艶やかに流れる脚、甘い香り、へただけど愛嬌のある笑顔。そのてらついた唇を奪いたい。
 僕はシズカの肩を押し、身体を倒した。黒髪は光沢を放ちながら、カーペットに広がる。シズカの両手を握り、指を絡ませて、毛羽立った絨毯に押し付けた。意識は薄くなってゆき首筋に頭を埋めた、シズカの身体は暖かい、僕の体はどうだろうか?
 唇を首筋に這わせ、舌を転がしながらシズカの唇に持っていく。横から掠めるように唇を奪った、てらてらと輝いている唇は――ぶるりと振るえた。
「この前はごめんな」
「スケッチブックのこ……と?」
「うん、そのこと」
「それより――」
 ばたばたとシズカは胸の中で暴れ、僕から出ようとする。身体を捩じらせて胸の中から飛び出し、シズカはシーツが垂れ下がるベッドの下部に腕を突っ込んだ。覗き込むような体勢のシズカは、手探りで何かを探している。突き出されたお尻は、海に浮かぶ満月のようで見入ってしまった。
「どうしたの? シズカ」
 片手を突っ込んだまま、僕を窺いへたくそに笑った。「これを渡そうとしてたのに、国友君が襲うから」そういってまた――にこりと笑い、ある箱を取り出した。
「はい」
 暗くて何か解らない。少し大きめの箱、綺麗にラッピングされていることは分った。やわらかい布に箱が包み込まれ、上部にリボンが括りつけられている。シズカはゆっくりとした動作でリボンをほどき、布が四方へ開かれた。
「国友君――へ」
 突然の出来事で僕は何もいえないまま、シズカはその箱の中から何かを取り出す。すぅっと、シズカは物音も立てずに近づいてきた。這いながら、ゆっくりと真向いに来たところで正座をした。渡しものがあると聞いて、僕は自然と正座をしていた。
 絨毯の温度と室内の温度差がある中、暖かい息が肌をくすぐる。粒子状になった呼吸があたる、静まり返った室内は、呼吸と心臓の打つ流れが誇張された。僕はどうしたらいいのか分からないまま、シズカの動向に息を呑んだ。
「クリ、クリスマスプレゼント、だ、よ」
「うん」
 暗闇の中から、眼前に両手が大きく浮かび上がる。何かを手に掴んでいるシズカは、僕の両耳に何かを当てた。耳の感触から、それはスポンジのようなもの、耳にあるものから、口元に向かって何かが飛び出している、それが分った。
「国友君、聞こえる?」
 耳に直接シズカが語りかけているように感じた、シズカの声質に微量のノイズが乗っていた。
「シズカ……これ」
 急いでシズカは僕から離れる、部屋の一番奥の壁にもたれる。恥かしいんだろうか……膝を折り、包まるようにして口元に手を当てる。じっと僕を凝視している。
「国友君、よく聞こえるよね?」
「うん、聞こえるよ。シズカの声だ」
「ん……」シズカはコクリと頷いた。
 指で抓んでいる口元のアームはマイク、両耳に当たっているスポンジに包まるものはヘッドフォン。トランシーバのようなものが僕とシズカを繋いでいた。シズカは声をデジタル信号に変え電波を発信、受信して増幅された声を僕に伝える。このデジタル信号に変換することで、スケッチブックのようにフィルターを掛けている。それがシズカにとって重要であり、フィルターが掛かっているためパニックに陥らないのだろう。
 で、ないと、スケッチブックに書き込むことによるパニック回避の説明がつかない。多分だけれど、シズカの掛けている眼鏡を外すと、パニックで僕を見れないのではないだろうか。ハッキリしたことは分らないが、それならば僕は納得できる。
「シズカ、僕の声、聞こえる?」
「はい、聞こえます」
 僕とシズカは、見つめ合った。真っ暗闇の中――見つめ合う、月光がシズカを照らし、淡い光がシズカを滲ませているようにみせた。僕は月光とシズカに魅せられ、動悸が高まる。静かな室内、でも、シズカの微かな吐息も、ダイレクトに僕の鼓膜を振動させる。シズカも同じだ、僕の荒い息がシズカの鼓膜を打っている。唾を飲み込む音、かさかさに乾いた唇の掠れる音、隠せずお互いに伝えていた。
「シズカ」
「国友君」
「シズカ」
「はい……」
「好きです」
「国友君、私も好きです……愛しています」
「シズカ――」
「はい」
「シズカ」
「はい……」
 毛羽立った絨毯に手と膝を擦らせて、シズカに向かって進む。ホットカーペットの熱が、絨毯を介して掌に伝わってくる、じんとしていた。着実にシズカとの距離を縮めている。
「キスするの?」シズカの声。
「うん」
「キスして」
 トランシーバは、シズカをすぐ隣に居て耳元で囁いているような錯覚を与えてくれる。ずるずると絨毯を擦る音がする、近づいていくとシズカの姿がクリアに現われてくる。シズカは細い指でマイクを抓み、力強い眼差しを向け、僕を待っていた。
「キス、するよ」
「来て」
「それだけじゃ済まないかも……」
「あ、うん、国友くぅん――いいよ、準備は出来てるから」
 はっきりと身体の輪郭が分かるまで近づいた、もう接している、シズカの腰に手を回し、鼻同士がふれあう位置まできていた。
「国友君……お話するって、楽しいね」
「うん、気持ちがちゃんと伝わってる……と思う」
「ちゃんと伝わっているよ」
「シズカ、ちゃんと感情が伝わるよ。今、怖い?」
「少しだけ……だけど安心感の方が強い。国友君だから」
 僕に眼を合わす、睨みつけられたような感覚に囚われるほど実直に、シズカは眼差しをぶつけた。シズカと僕――マイクのワイヤーを上へ持っていく。シズカは眼を瞑り、唇を突き出している。僕は、ちぢこまるようにしているシズカの腕を取った。遊ぶようにして指を絡ませ、壁に押し付けた。壁はつめたい、シズカの手のひらは、熱い。身体をかさね、シズカの熱い体温を感じながら、僕はそっと唇にふれた。
 お互いに乾燥した唇、なんども唇をかさねていくと徐々に湿ってくる、その内側を熱くさせる。
「国友君……」
「どうしたの?」
「――おっぱい」
「ん?」
「おっぱい、あたってる、の」
「おっぱい」
「うん……おっぱい」
 掌の感触がしっとりと、熱かった。むりゅりとして、指が吸い込まれている。無意識にさわっていた。僕は体を起こした。
「国友君って、大胆だね」
「い、いやあ」
 シズカは口元にマイクを当て、ほほえみを浮かべる。サンタ衣装の前ははだけ、ブラウスのボタンは外され、無理矢理手を突っ込んだ痕が残っていた。壁にもたれかかり、きゅっと身体を縮める姿、マイクのアームをイジっているシズカの姿があった。
 そこにいるのに、あたかも耳元で囁かれているように感じる、僕の肩に身体を乗り上げて囁かれているイメージは、シズカの身体のぬくもりすら伝えているような感覚に囚われている。
「これ、やばいよ」
「これ?」
「このトランシーバ、やばい、僕もヤバイよ」
「ホント――良かった、喜んでくれて」
 はだけた衣装をなおさず、シズカは恥かしさを紛れさせるように体操座りをする。肉付きいい太ももが露になる、細い脚だけど筋肉質ではないやわらかそうな脚、ちらりと真っ白なパンツが見え隠れしている。僕をジッと見据えるシズカは、吐息を僕に伝える。ヘッドフォン越しに伝わる吐息は、甘い吐息に感じてしまい、息が耳にあたっているような気がしてくる。
「はあはあはあ――」息があがる、興奮がやまない。
「国友君、聞こえるよ……我慢出来ないの?」
「シズカァ」
「……ん、いいよ、国友君。ベッドに行こ」
「我慢できない――」
「国友君、ちょっと待って――」
 ガタンッ、激しい音がした。――ドアの向こう側で何かの衝撃があったような気がする。でも、そんな事に気が回る余裕はなかった。ヤヴァイ、シズカやばいよ……
 シズカは僕の身体に抱きつき、淫靡な吐息を吐いた。全身に力を入れて僕を抱きしめる。ヘッドフォン越しだけど、実際に耳元でフィルターを掛けて囁く。
「落ち着いて、深呼吸しようよ、ね」
「う……うん」
 窓の下、月に覗かれて、絨毯に横たわるようにして抱きしめ合った。どくんどくんと鼓動が胸を打ち続ける。シズカの脚が僕の脚に絡まる、シズカの腕が僕の背中を優しく撫でる。僕の胸に埋まりながら、シズカの荒い呼吸が耳を打ちづつけた。
「シズカ、出る、我慢……無理」
「うぅ、うん。ズボン汚れちゃうから、国友君」
「シズカ、逝きそ、いくいくいく」
「あっ、ああ、待って国友君……すぐ脱がすから――」
「シズカ、シズカァ、キスしよ、キス」
「キス、でも国友君、早くズボン脱がなくちゃ」
 かちゃかちゃと金具を外して、ジーンズとトランクスを一緒に下ろした。ずり下ろした時にシズカの息が爆発寸前のモノのあたり、我慢の限界に達した。カチカチのモノの、至近距離にシズカの顔があることさえ発射の後押しにすらなっている。
 もう、駄目。シズカとキスがしたい。好きで好きで堪らないシズカとキスをして、愛情を感じたい。その中で発射してしまったら、もの凄く幸せなんだろうか、とにかくシズカとキスをしたかった。
「国友君、いま行くから」
「キスキス」
「はいはい、国友君」
 ――――逝った。
 僕は、もう一度シズカの唇に僕の唇を押し付けた。顔を近づけるとアーム同士が当たり、上部にマイクが跳ね上がった。シズカは僕の頭を撫でる。
「出ちゃったね、国友くぅん……ショーツの周りにいっぱい付いてる」
 シズカの白いパンツから太ももにかけて、いっぱい詰まった白い液体が飛び散った。僕にキスをしようと身体を滑らせて、発射寸前の僕のモノをシズカは刺激した。スカートのデニム地のキツイ刺激から、やわらかな太ももと暖かいコットンの感触に包まれた。刺激の段差とシズカの唇の感触と熱さ、ダイレクトに情報が流れるシズカの甘い吐息、気持ちが交差して僕の想いを発射した。
「ねえ、まだ出てる。熱いよ国友君」
「うん――」
 優しく抱きしめられ頭を撫でられて、僕は安堵のような安心のような、ぽわぽわした不思議な感覚に包まれている、シズカに優しく包まれていた。びゅっくびゅっくと射精が止まらない、僕の収まらない波打つモノは、染み込んでいる汚れたパンツに押し付けて、想いが白い液体に形を代え、何度もシズカの大事なところにぶつけていた。
「シズカ、も一回いうよ。冷たくしてゴメン、ほんっと大好きです」
 歯がカチカチと当たり、押し潰れるほどシズカは唇を押し付けた。僕の上に覆い被さっているシズカは、全身で僕の気持ちに返事をする、信じられない力強さで身体は締めつけられた。
「痛い?」シズカがいう――
「痛い」僕もいう――
「うん……」シズカは頷いた。
「ありがと」僕も出来る限り抱き締めた。「シズカ痛い?」僕がいう――
「痛い」シズカもいう――
「うん……」僕は頷いた。
「国友君、ほんっとに大好き」
 シズカの言葉から隠れるほのかな感情を読み取って、僕はいっそう愛おしく思った。


 ☆


「国友君、ショーツどうしようか、穿きかえる? このままで居よっか?」
「ええええ、ど、どいうこと?」
 光は月光のみ――窓の下にいる僕から、離れた場所にいるシズカは、箪笥を前にしてトランシーバで突然聞いた。発射してしまった後、抱きしめあってお互いの気持ちを確認した僕ら。シズカは月光から隠れるように箪笥の前に立ち、引き出しを開けた。
「うん、だって途中だったから、国友君最後までしたいかなって思って」
「ああ、あの、えっと、どうしよう」
 駆け巡るさまざまな思考、急にそんなこといわれても、どうしていいのか分からない。――このまま何もしないのにパンツは汚れたまま……とかアブノーマルなことまでイメージが膨らんでくる。シズカの高揚した荒い息も、ノイズの乗って直接耳に入ってくる。
 これはヤヴァイ、意識とかシズカの気持ちとか僕の気持ちとか、関係なく誘惑が襲ってくる。
「したかったら……うん、いいよ」
 ……抗えない。シズカのマイクは引き出しの擦る音を拾い、引き出しは閉じられる。手には何も持っていなかった。
「だって、我慢出来ないでしょ」
「うううう、うう、うん」
「だから……いいよって――ね? 国友君」
 何故か僕は追い込まれていた。確かに追い込まれるとは語弊がある、選択権があるのだから。でも、何故か僕に選択権がないような気がしてきた。僕のことを想ってシズカがいってくれているのに、誘導されているような、そんな気がする。思考は機能を停止していうことをきかない、下半身はなおさらだ。
 考えなんて吹き飛んでしまいそうになっているところに、シズカがゆっくりと近づいてきていた。窓から入り込む月光は、シズカの身体を斜めに照らす。サンタの衣装を脱いでいたシズカは、前が開いたままの白いブラウスと短いデニムスカートの姿だった。そのデニムスカートは裾が軽く捲くれていて、染み込んだパンツと下半身に感触が残るやわらかい太ももが見え隠れしていた。
「無理です……する。シズカ、する」
「はい、国友君」
 ばたばたと格好悪くしシズカに近づく、手を足をバタバタさせて、シズカの脚に抱きついた。くすっと笑うシズカの声が、またダイレクトに耳を打つ。身体全身に電気が走り、気が付けば太ももに頬を寄せ、すがりつくように頬ずりをしていた。目の前にシズカの、僕に汚されたパンツがある。ところどころ黄ばんだ斑点が出来上がる、塗れた純白のパンツ。あの暖かいコットンの奥に、熱い大事な部分がある。
 堪らなくなってシズカのあそこに吸い付こうとした――瞬間。
「うわあ!」
 もの凄い爆音がした。
 どこからか分らないけど、人の声と爆発したような音が……
「国友君、何?」
「え?」
 沈黙。
 えっと、誰か居る? あまりの出来事で、僕とシズカは固まった。人がいるってことは、誰だ? どうして入ってこれたんだ? シズカの太ももに腕を回したまま考えていた、僕はマイクに向かって話しかけた。
「玄関の鍵掛けた?」
「うううん。国友君がきた時、緊張して覚えてない、多分掛けてないと思う」
「泥棒?」
「かなぁ?」
 急いで立ち上がった。スカートの中から顔を出すと、シズカが真剣な眼差しで僕を直視する、不安を押し殺していた。「僕が行くから、シズカは着替えといて」足早にドアを開けた。
 廊下には誰も居ない、ひんやりを肌寒い風が流れているだけだった。とりあえず鍵が掛かっているかどうか確かめるために玄関に向かう。一歩脚を出すと、小指に何かが当たった。蹴った勢いで、円を描くように廊下を転がるものは――クラッカーだった。クリスマス用の、円錐形クラッカー。
 何か引っ掛かるものを感じたけど、急いで玄関に向かう。玄関に辿り着くと、ドアを一瞥した。鍵は――掛かっていなかった。
 一気に緊張が高まる。動悸が止まらず、強く息を吐いていた。
「鍵、掛かってなかったんだ」
 シズカの声、僕の吐いた息が、シズカに鍵の結果を伝えていた。ヘッドフォンから不安な声色が聞こえる「ショーツ穿きかえたからそっちにいく」と、シズカの意思が伝わってきた。
 玄関で右往左往していると、ダイニングキッチンから物音がした。キィの高い声と入り雑じっている。キッチンに誰かいる、僕はゆっくり足を忍ばせてキッチンへ向かった。
 廊下の電気は点いている、キッチンの入り口から人影が廊下に映し出されていた。居る、誰かがいる、入り口の手前の壁に背を付け、中を覗き込む。鼻を突く焦げた匂い、天井を這うように黒く濁った煙が逃げ出すように外へ流れ出していた。僕はジリジリと足を滑らせて入り口に身体を傾ける、ゆっくりと中を覗き込む。がちゃがちゃと器具の暴れるような音がして、蛇口から流れる水道水の音がした。中は少し煙《けむ》っていて、はっきりと中の様子が分らない。立ち込める煙が逃げ出してゆき、うっすらとフォルムが現われてきた。徐々に現われる姿、煙は天井をつたい流れていった。
「シズカ、聞こえる?」
 犯人が分った。僕は、すぐにシズカに連絡を入れた。
「聞こえるよ、大丈夫?」
「誰か分ったよ……」
「うん」
 いまだ煙が立ちのぼる中キッチンに入った。フライパンからもくもくと煙があがる、うちの制服にエプロンをつけた女の子があたふためいていた。
「なにやってんの? 相川」
「わわっ」
 手には調理用の手袋をつけて、フライパンの上に載っている蓋を取ろうとしたところで、相川は固まった。瞳を開いて機能を停止したように微動だにしない相川は、蓋をもったまま口をパクパクとさせていた。
「いきなりフライパンが爆発した、びっくりしたぁ……」
「そう――」
「ホント、死ぬかと……おも」
 ――「シズカ聞こえてる? 相川だった」相川を遮断するようにシズカに伝える。「いまからそっちに行く」と、シズカのマイクはドアを開ける音と共に声を拾った。
「何作ったの」
「ポップコーン」
 足元に、中身が空っぽになった外国産のポップコーンの袋が、落ちてあった……
「もしかして、これ全部入れた?」
「え、入れんじゃ……ないの?」
 ……これ、何人分あるんだよ。
 あは、あはは、とカラ笑いしながら、相川は心なし寂しそうに椅子に腰掛けた。「まさか爆発するとは、思わなかった」相川は――ふう、とさっきの白煙のような溜め息を吐いた。とりあえず僕はシズカを待った。



 5.
 玄関には僕と相川とシズカがいた。時刻は十一時、そろそろシズカの両親がディナーから帰ってくる時間になっていたので、僕らは帰る身支度をして玄関に来ていた。
 ポップコーン爆破事件の片付けをシズカがやっている間に、僕と相川はリビングでケーキを切ったり、シズカが帰ってきた時に使うクラッカーの用意と、楽しいひとときを過ごしていた。真っ暗にしたリビングで三人一緒にロウソクの火を消して、そして雑談。楽しい時間はあっというまに過ぎ去った。僕は、自分がイラついて壊しまくった関係が、元に戻ったような気がして……安心の方が大きかった。
「んじゃいくね、シズカ」相川はウインク。
「後で電話する」と僕は手を振った。
 玄関を開けると、外から凍てついた風が入り込み、僕らの身体を冷たく撫でた。
 途中まで帰り道が一緒だから、僕は相川と二人で歩いていた。風が強い、ダッフルコートを深く着込む。真っ白な息を吐くと、体はぶるぶると震えた。僕は自動販売機に走って暖かい珈琲を買う、相川にはとりあえず無難なロイヤルミルクティを買うことにした。
「ほい」
「ん、サンキュ」
 相川は投げた紅茶を受け取ると、頬に缶を当て肩を震わせていた。薄いトレンチコートを羽織る相川は身体をちぢこめるようにして、唇を震わせてごくごくと紅茶を飲み干していく。
 雪は降らない、ただ冷たい風だけが僕らをうっていた。街路樹は、示し合わしたように同調してカサカサと風に吹かれ、街灯も同調するように不安定に点滅していた。
 無言のまま五分ほど歩いたところで、相川はおもむろに僕を呼んだ。国友、何?
 手のひらに息を吐いていた横顔は、ゆっくりと正面になった。掴めない相川の表情、立ち止まっている僕らにヘッドライトの光が掠めていく。一台、二台、十台とヘッドライトのまあるい光が僕らを掠めていった。
「だから、何? 相川」
 一瞬にして、頬に衝撃が走った。何が起きたか把握出来ず、相川の赤く腫れた顔が歪む。ジンジンと痛む頬は、僕が殴られたことを知らせていた。
「痛ぇ」
「そりゃそうよ、おもいっきり殴ったんだもん」
「何で?」
「……シズカのこと大事にしろ、ばか」
「はいよ……」
 何事もなかったかのように、相川は歩き出した。僕は、何故か、頬の痛さはあまり感じなかった。頬を擦《さす》りながら下を向いて歩く。くすぐったさともいえず、やわらかさともいえず、微妙な頬の痛さを感じている。口元が変に上がり、ニヤケてきていた。
「なあ、相川……シズカの部屋の前に落ちてたクラッカー」
「あ、うん――わたし」
 一度、ドアの向こう側で激しい音がしたのは相川だった。こっそりとキッチンにいってポップコーンを調理したみたいだ。もしかして、シズカとキスとかしてたのを見られていた……
「もしかして、ポップコーン爆発させた?」
「まさかぁ、たまたまよタマタマ。タイミングはバッチリだった?」
 相川は頬を赤らめ、カラカラと大口を開けて笑った。
「うっせぇよ」
 確かにタイミングはバッチリだった。狙ってるのか、と思うほどにトンピタだった。僕のを殴ったことを思うと、相川は全てをしっているのだろうか、途中までエッチしたこと、仲直りしたこと、と。
 どちらにしても僕はシズカを大事にしていく、だから関係ない。途中でもなんでもあれだけシズカを傷つけた、僕がシズカの気持ちに応えていきたい――それだけだ。
 とぼとぼと歩いていると、交差点に着いた。ここで相川とお別れだ。ポンッと紅茶の缶が飛んできた、相川は帰っていく。
「じゃ、またね国友」
 相川は、波に乗るように手をひらひらとさせて去っていく、僕は後ろ姿を眺めながら声を掛けた。
「そんなこといって、どうせ三人で会うんだろ」
「まあね、そんなトコ」
 そういって、振り向きもしないで、暗闇に消えていった。一言でも謝っておけばよかった。



 6.
 ノイズが乗る、携帯電話のノイズはトランシーバと違って、ほとんどノイズが乗らない。トランシーバはアナログな感じがして、すぐ傍にシズカがいるように思えて、とても嬉しかった。自宅に帰ってきてすぐに、僕はシズカに電話を掛けていた。
「シズカ、ただいま」
「家に着いたんだね、お帰りなさい」
「今日はありがとう、シズカに逢えてよかった」
「私も……逢えて良かったよ。それとね、プレゼントありがとう。スケッチブック、私でいっぱい」
「うん、最初にスケッチブックがあったからシズカと付き合えたんだから、その、ありがとうの気持ちかな?」
「国友君、ありがとう」
「ええっと、これからはトランシーバだね。僕の隣にシズカの家があったら、一晩中話せるのにな」
「うん……そうだね、でも――将来は家じゃなくて国友君の隣にいるから、待ってて」
 僕は言葉が出てこなかった。感極まるっていうか、なんていったらいいのか分からず、黙ってしまった。でも、何かいわないとシズカが逆の意味に取ったら嫌だから、僕は何とか口を開いた。恰好いいことも、素敵なこともいえなかった。――悔しさで唇を噛んでいた。
 ――居ろよ、ぜったい。
 ――はい……国友君。


  1. 2006/11/12(日) 20:00:09|
  2. 中編作品|
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猫、心重ねて

 1.
 窓の外から入り込む灯りが、室内に写し出されていた。窓を閉め、ザ――ザ――と降る雨は灯りを散らし反射させる。ワンルームの一室は蛍光灯が消され、パイプベッドから不規則に軋む騒音を放っていた。静寂とした空間の中で、安っぽいギシギシとした音が響いている。――微かな吐息が、その騒音に雑じり込んでいた。雨は降り注ぐ。


 ☆


「にゃにゃ、みゃぁぁああ――あうぅ」
 どうしてこうなってしまったのか、まともに呂律《ろれつ》が回らない。鉄ちゃんは、あれ以来帰ってこない。寂しい想いを慰める為に、自慰行為に勤しむとは如何なものかと……溜め息が止まる事はなかった。
 あの日実家に帰っていった鉄ちゃんを想うと、切ない気持ちが溢れ出す。
「にゃぅん」
 猫なで声が自然と零れた。
 元々私は遺伝子組み換え配合済み人外生物ではなかったのだが、まさかこんな猫になるとは思いも寄らない。しかし、あの雌猫を責める訳にはいかなかった。
 男物の、サイズが合わないパジャマの私はベッドへ寝転がり、横を向いてクの字になって悶えていた。頭部からカチューシャのように肌触り良さ気な猫の耳が生え、掌と足の裏からは肉球が現れていた、尻の辺りから尻尾が生え、猫ではないと言い難いが半猫化している事実は否めない。
 四つの耳により聴覚は敏感になり、感度が爆発的に上がった。全身毛むくじゃらにならなかった事に関しては安堵をするが、実生活を思うと両手を上げて万歳とはいかなかった。
 しかし、そのような明日への活力を見出しているのにも関わらず、ズボンの中で弄っていた手は……想いに反して止まらなかった。
「にゃふぅ」と吐息が漏れる。ショーツの上から筋をなぞる肉球が、するりとショーツの中に差し込まれる。肉球という新たな感触が、快楽へと誘うのだ。
「にょにょにょにょにょ」――むずむずが私に襲い掛かる。気持ち爪を出して襞《ひだ》をなぞり上げる、くいくい、と突き刺さらないように珠が覆われる膜壁を捲る。「う――」空気を揺らしながら、慎重に珠を剥きあげてゆく。
「にゃにゃにゃな――あっあっ」
 爪で傷をつけないように肉球で弄び、柔軟な肉球をぽにぽにと押し付ける。鉄ちぃん、早く帰ってくるにょぅ……切ない吐息が語尾に雑じる。
「あうあうあう」
 ザラついた肉球が、珠に吸い付いて離れない。頭から剥き出した猫耳がへたりと塞がり、辺りの物音を消してゆく。鉄ちゃんの顔を思い浮かべ、襞の筋をぺたぺたと押し潰す。
「にゃにゃにゃぁあ」
 びくびくびくびくびく、と快感が全身を走り、膝を抱え蹲った。「ふにゃぁあん……」まどろみながら、ゆっくりと意識が飛んで逝った。



 2.
 小雨が降っていた。相合傘で二人で歩く。商店街を抜け鉄ちゃんの肩に寄り添い、ああだこうだ会話を交わしながら帰宅途中だった。大学の講義終了後、時間が合えば待ち合わせをして帰宅していた。
 ――鉄ちゃんは私の彼氏になる。一人暮らしの私の部屋にしょっちゅう上がり込み、半同棲清生活を続けていた。取り立てて顔が良いだとか恰好が良いだとか、そういったものではなく、高校からの腐れ縁だった。しかし鉄ちゃんを愛していた、鉄ちゃんの良さは私だけが解ればそれで問題はなかった。大学へ入学してほどすぐ、鉄ちゃんの周囲に女友達が増発した事が……かなり気になっていた。
 小雨は霧雨に変わり傘をすり抜けて、私たちを濡らしていった。霧吹きで吹いたように水分が纏わりついてきた。
 だが鬱陶しくはなかった。この出来事も話題になり、私たちの会話も弾む。二人を取り囲む熱が染み込んだ雨を溶かし、蒸気になりたちあがる。そうして半透明の青いビニール傘は曇り、また冷されて水滴に戻ってゆく。――まるで隣に居る鉄ちゃんのようだった。喧嘩をしては蒸気になり家を出る。心配させるだけさせておいて、熱が冷めればまた水滴になり私の元に戻ってきていた。
 鉄ちゃんは過去の浮気がばれていないと思っている様子だ。しかし、しょっちゅう顔をつき合わせているのだから、気付かないはずがない。
「おい、そこの助平。浮気するなよ」
「何を急に言い出すんだ、アホか」
 そういって、私の頭を手の甲で小突いた。鉄ちゃんが小突く瞬間、躊躇したかのように思えた。現在も浮気をしているのか、と不安に駆られ腕にしがみついた。胸が詰まる、自然と過去の浮気リストを頭に浮かべた。
「穂種だろう、玲だろう、渡辺さん……まだまだいる。もう浮気出来ないように脱ごうか? 鉄ちんは、私の魅力を再認識しなさい」
 すうっと鉄ちゃんの手が伸び、私のスカーフを押さえた。
「お前は本当にやりかねんから、やめとけ。この変人めぇ」
 鉄ちゃんは、からからと大口を開けて笑う。
「変人扱い大いに結構、半ば諦めたよ。まあ、変人と自分で認識するまでに、多少時間は掛かったがね」
 表情を変えず、何事もなかったように振舞った。鉄ちゃんは私の変化に気付いていないはずだ。確証のないまま問い詰めても良かったが、正直本当に浮気をしていた場合を考えると怖くなった。
 あがらない雨は強くもならず、ただ静かに霧のように降り、風に攫われて大気中を泳いでいた。空も同様薄く、靄が掛かったように長細く雲が伸び、太陽の零れ陽が滲んでいた。
 そろそろ我が家に着こうか、という頃、信号待ちしていた私たちの横で、猫が睨み合いをしていた。一匹の黄色の猫が、薄汚れた鼠色の猫に向かって睨みつける。
「鉄ちん、凄い剣幕だな」
「うわぁ、あっちの方の猫に同情するなぁ、俺だったら絶対逃げるわ。身に覚えあるし……」
 鼠色の猫に指を差していた、雄猫のようだ。そうすると、黄色の猫は雌だろうか。ぎゅっと、しがみついていた鉄ちゃんの腕に力を入れる。
「じゃあ、あっちの鼠色の猫が浮気したんだ。粛清されても文句はないな」
 鉄ちゃんは私を一瞥し、肩をすくめた。
「みゃああ――――」鉄ちゃん猫の奇声が聞こえた。
 雌猫の圧力に耐えかねて、鉄ちゃん猫は踵を返した。信号はまだ赤だ、躊躇いもなく車道へ飛び出した。
「危ない!」思わず叫んでいた。「ああああ……」鉄ちゃん猫は車両をすり抜け車道を渡る。
 ――反射的に雌猫も追いかける。情報が眼に入ってから脳が認識するまでのタイムラグ、雌猫はコンマ数秒出遅れた。駆け出す雌猫、鉄ちゃん猫はどうにか駆け抜ける車両をかわしきって、向こう岸の歩道まで辿り着いた。雌猫はどうなったのか?
「鉄ちん、猫が!」
 更に鉄ちゃんの腕を締め付ける。掌を伸ばして、互いの指と指を絡め合い握り締めた。あの雌猫の危険が増さり、指に固く力が入る。掌から汗が滲み熱が入る。「危な――」
「駄目だ、死ぬぞ!」
 鉄ちゃんの叫ぶ声が、一面に響き渡った。――一瞬の出来事だった。
「鉄ちん……」
 クラクションの情けない音が、単調なテンポで鳴り響いた。“ぷわぁぷわぁぷわぁ――”木霊する旋律の中で、雌猫はアスファルトに血痕を残して横たわっていた。軽トラにぶつかった衝撃によって吹き飛ばされ、鉄ちゃん猫が居る歩道まで届けられ、そうしてぐったりとしていた。「みゃうぅん」と、鉄ちゃん猫は泣き声を張り上げ、雌猫の顔を舐め上げていた。
 信号は青になり、私たちは駆け寄った。黄色いポールに内臓されるスピーカーから、とうりゃんせが流れ出す。安物臭い電子音が、クラクションと共に私の耳を打つ。
 ――やりきれない思い……強い想いが交錯する。
 正直他人とは、猫ではあるが、あの雌猫は他人とは思えなかった。どうしても、私と鉄ちゃんとの関係を想い浮かべてしまう。雌猫の威嚇のような睨みつけは、責め立てているように思えた。浮気をした鉄ちゃんに罵声を浴びせ倒している私の姿と重なった。申し訳なさそうにして逃げ出す鉄ちゃん猫も……同じ姿だった。
 現実に“私”の目の前で“私”が憔悴して横たわる。疲れ果てた面持ちを露にする“私”が、抱かれるようにして“鉄”に舐められていた。
 ――やりきれない。
 今回と言うのも口惜しいが、結果雌猫が死んでしまった、もしかすれば鉄ちゃん猫が轢かれていたかも知れなかった。事実、車両を確認してからではなく、車道に飛び出してから車両に気付いて避けていたのだ。雌猫が一歩も動けずに、目の前でボディにめり込み吹き飛ぶさまを、あまりの出来事に傍観せざるおえない可能性があった。
 愛するものを失うか、私が失われるか、二者択一だった場合……私はどうするのだろうか。
 ――痛い。万力で想いの根源を圧殺される。切なくて狂い死にそうだ。
 私は、再び鉄ちゃんの手を握り締めた、引き千切るほど握り締めていた。鉄ちゃんの指が絡み合って私の甲に爪がめり込む、私の長い爪も鉄ちゃんの甲にめり込んでいた。
「つぅ……」
 引っかき傷がお互いにでき、私は洩らしていた。鉄ちゃんは眉一つ変化せずに、唇を噛んでいた。無言のまま猫たちを凝視し、真剣な面持ちをしていた。
「何も言わず思いっきり握れ、あの鼠猫には悪いが俺が轢かれるべきだった」
 私は何も言えず立ち尽くした。信号は青に変わり、鉄ちゃんに手を強引に引かれた。
「行くぞ」
「ハイ」
 バサバサと開いていた傘が風を切り、私は引っ張られ上半身が前乗りになった。脚が縺れ、つんのめるようにして駆けた。水泡のような霧雨が頬を打ち、徐々に小雨になり雨へと変わる。
 辺りは何事もなかったかのように動き始める。轢き殺した運転手も窓から身体を乗り出し窪んだバンパーを一瞥、「あーあ」と面を顰《しか》めて身体を戻す。何食わぬ顔をして、アイドリングしていた。衝撃を現す窪みは痛々しく、しかし私は悪態を吐くにも嫌味の一つも運転手には言えずに、ただ鉄ちゃん猫が嘆く場所へと向かっていた。私は、そのような悪態を吐くほどの立場ではなかった。
 雨が増して強く降り出した。歩行者の傘が一斉に開く、鉄ちゃんと私はその横断歩道の中をすり抜けた。鉄ちゃんの持つ傘が歩行者の傘に干渉する、水飛沫《しぶき》をあげながら、嘆き続ける鉄ちゃん猫と雌猫の居る場所に辿り着いた。傘を引っ掛けられた歩行者は、汚い物をみるように軽蔑した眼差しを向け、去っていった。
「おい糞猫――」そういって、鉄ちゃんは笑っていた。
 その鉄ちゃん猫へ手を伸ばすと、鉄ちゃんは威嚇された。けたたましい剣幕で「シィシィ――」と鳴き声とも取れない衝撃を放つ。鋭く八重歯を剥き出して、顔の輪郭を歪ます。
 しかしながら鉄ちゃんは、ほほ笑みを崩さず指を近づけた。――が、「痛え」鉄ちゃんの悲痛なる咆哮がうねりをあげた。身も心も猫たちに共感する私たちは、千切られ――そして散らされる想いだった。
 そうして歯形の痕を残した鉄ちゃん猫は逃げ出した、いや駆け出していった。
 雌猫の残骸がある、ピクリとも動かない完全に終了した“私”だ。外傷は少なく、口から血反吐をしてアスファルトに垂れ流れていた。雨がただ雌猫を打ち、血痕を綺麗に流していた。毛並みがしっとりと身体に吸い付いて少し地肌をみせながら、母親生み出た産卵直後のように生々しく、それでいて美しい屍になっていた。
 美しいが胎内は最悪の状態だろう、と唇を噛みしめ、その産まれたての猫を持ち上げた。
「――っ」
 案の定複雑に折れていた。流石に内部はわからないが……変に軟わらかい。私は雌猫を抱きしめていた。訳の分らない体液がべっとりと付着し、ブラウスを汚した。そんな事はどうでも良かった、ただ雌猫の体温を感じたかった。願いは叶わず雨に濡れ汚物に塗れ、雌猫は冷めきった屍骸に変体していた。
「おい、お前何やって」
「え?」
 蒼白した鉄ちゃんが私の胸元へ、視線を釘付けにしていた。更に驚愕した鉄ちゃんは私を抱き寄せた。
「力を抜け……な?」
 一体何を言っているのかこの人は、そう思い鉄ちゃんの視線を辿ると、胸元は猫の体毛を毟り取ったように多量の毛がこびり付き、胃液なのか血液なのか体液なのか、さまざまな液体がブラウス全域に拡がっていた。屍骸を無意識に締め付けていたため、抉れ薄っぺらくなっている。
「気持ちは解る」鉄ちゃんは頭を撫でてくれた。
 無意識に“私の屍”を潰していた。無意識に、悔しさのあまり抱きしめるつもりが……潰した。
「とりあえず、お墓を作ってやろうか」
「そうだよね」
 雨は強く、アスファルトに向かって降り注ぐ。ビニール傘は大粒の雨を吹き飛ばし、耳に付く音色を放っていた。傘に入りきらない肩は塗れ、蒸気をあげる。風に乗った雨は私たちの顔を横殴りにして、気力を消耗させていく。
 そうして我が家に向かって歩み出した。


 ☆


 マンションに着いた私たちは、都市条例のため仕方なく設置したといわんばかりの公園に向かう。コンクリートに囲まれた、申し訳ない程度に細い木が一本植え込まれた公園。景色と同化してもいない、名前だけの箱庭のような公園だ。その面積がワンルームじみた狭い公園の砂地に腰を下ろす。鉄ちゃんは私に傘をあてていた。
 転がる拳程度の石を拾い、穴を掘っていく。水気をたっぷりと含んだ土は柔《やわ》く、簡単に抉れ掠め取れた。飛び散った泥が頬や額、唇に付着するが、雨と暖かい涙が流してくれていた。
「手伝おうか?」
 肩を叩きしゃがみ込み、鉄ちゃんは石を探し始める。
「いい、私一人で掘るから」
 先ほどの猫の飛び出しに気付いた時には、既に遅かったとはいえ、責任を感じずには居られなかった。手の出しようがなかった事は認める、が――いたたまれない、ただの意固地になっていると自嘲した。
「そう思い詰めるなよ」
 鉄ちゃんは寄り添うようにして、しゃがんだまま傘を顎と肩で支える、胸ポケットからCoolMildsを取り出し唇に挟み火を点けていた。傘は視界を軽く遮る。
「あっ、すまん」
 何事かと思うと、傾いた傘の支柱から伸びる針金が頭に乗りかかり、私の頭部で支えていた。
 気が付かないほど、抉れた穴から泥を掻き出していた。
 無言のまま私は猫一体分の穴を堀あげて中へ落とし込む、肉塊がホーローに叩きつけられたような濁る音を立てた。盛り上がっている、掘り起こした泥を掻き集め、のたのたのた――雨が墓穴に浸水する最中、泥で覆い尽くし蓋をした。
 そっと鉄ちゃんの口元が歪み、咥えていた煙草を取り出そうとした。摘み上げた吸いかけの煙草を墓へ持っていく。その行為が少し気になった。私は「鉄ちん、線香代わりだとか言って墓に挿すなよ」と、釘付けしておいた。案の定。差し込むつもりだったらしく、危険回避をしておいて正解だった。
 小奇麗で無機質な公園の一角に、有機的な墓が出来上がった。墓石はスコップ代わりに使った、皿のように凹み鋭い角を持つ、灰と黒が入り混じる拳程度の石だった。
 雨は一向にやむ気配をみせず、ただただ雨雲は地上へ滝のような酸性の水を降らせていた。
「俺、一旦家に帰るわ」
 鉄ちゃんが立ち上がった。
「泊まっていかないのか?」
「ちょっとね……」
 急に畏まり苦笑を浮かべた鉄ちゃんは、私に傘を渡し、足早に実家へと駆けていった。不安に思いながら、一人で自室に帰ることになった。


 ☆


 あの日以来雨は降り続く、鉄ちゃんは実家に帰ったまま、私の家には帰ってこない。電話を掛けても繋がらなかった。大学にも来ていない。二、三日経つが、いまだ鉄ちゃんは現れなかった。――私の身体が異常をきたす。
 あの日以来、夕方になると猫の鳴き声が辺りに響いていた。通りがかると、鉄ちゃん猫が墓に凭《もた》れ掠れた声色で喉を鳴らしていた。いまだ雨はあがる事はなく、強く弱くを繰り返していた。――私の身体が半猫化した。
 鉄ちゃんが姿をみせなくなってから数日後、鉄ちゃん猫も姿をみせなくなった。静かに雨が降り続いていた。――表へ出ることが出来ない。
 変装して、鉄ちゃんの実家へ訪ねてみる事は出来なかった。関係を崩してしまう恐れが、私を押さえつけていた。――自慰行為の自制が効かない、苛立ちが募る。



 3.
 窓に肘を突いて、ひょいっと顔を覗かせて外を眺めていた。空は薄く雲を張り巡らせ、朧の形状を全面に映し出し、オレンジ色をした夕日が黄昏ていた。少々空は明るいが、雨はしとしとと降り注いでいた。
 横座りして、身体を外へ乗り出す格好をして眺めていると、マンションの玄関に人影が入ってきた。フード付きトレーナの帽子で頭部を覆い、トレーナーの腹部に当たるポケットに両手を突っ込む人影だった。このマンションはある程度の人通りがあり、特別気になる格好をしている訳ではなかったのだが、見覚えのある雰囲気を醸し出していたために気になった。
 電話も満足に寄こさない阿呆の鉄ちゃんが、姿を消してから一週間と少しばかり経過した。変装をして買い物に行くのも慣れてきていた。慢性的に何故か罪悪感を覚える自慰行為を繰り返していた、いまだ慣れる事はないが、行為終了後すすり泣く日々が続く。
 電気を消したまま、雨の中夕日を眺め、一人黄昏ていると……不意にインターフォンの呼び出し鈴が鳴った。
「どちら様ですか?」
「俺、鉄」
 既に私は駆け出し、ドアノブを握っていた。勢いに乗っていた私は、その勢いのままドアを開けた。
「うおっ」
 勢いあまってドアを鉄ちゃんにぶつけてしまい、手にはぶつかった衝撃が響く。
「お前なぁ、居んの分るだろう」
「一週間も音沙汰なしで、急に現れる鉄ちんが悪い」
 口を噤み額に手を当てて、鉄ちゃんは「入っていいかな?」と、ドアの縁から顔を覗かせた。
 正直説教の一つも垂れてやろうか、と思っていたが、鉄ちゃんの情けない表情をみると、その罵声の一つや二つを飲み込んでしまった。鉄ちゃんが又帰ってきたと思うと、素直に言葉が出ていた。
「帰りなさい。自分の家に帰ってくるのに、聞く事もないだろう」
「そりゃそうだ。んじゃ、おじゃましまぁす」
 鉄ちゃんが通り過ぎる瞬間、“お邪魔します”の一言で頭に血が登った。そそくさとハイカットのブーツを脱いで中に上がろうとした、その時。
「自分の家だといっとろうが」
 罵声を浴びせ、無防備に背中をみせる鉄ちゃんに向かって蹴りを見舞った。うつ伏せに倒れ込む鉄ちゃんを跨いで「ただいまでしょ鉄ちん、他人行儀な事言うなよ」私は息が上がり、肩を上下させる。
 何だか分らないが、こちらまで情けなくなってきた。鉄ちゃんを想い続け心身ともに果てた私は、蓄積された不条理が噴火したのかも知れない。
「勘弁してくれよ……って」
 振り返り、鉄ちゃんは私の顔に目をやって、怪訝な眼差しを送る。鉄ちゃんは呆けたまま、微動だにせず固まってしまった。嫌な空気が漂い始め、鉄ちゃんが口を開き、漂う空気感を切り開いた。
「頭に何か付いてるぞ」
「はっ」すぐさま頭に手をやった。
 ――猫耳だ。
 いつもならば、現在の鉄ちゃんのようにフードを被って訪問者の対応をするのだが、今回は鉄ちゃんの声を聴いた瞬間、何も考えずに出てしまっていた。どうせばれるのは時間の問題で、順を追って説明するつもりだったが、早速ばれる事になった。
「お前、いつから猫になった?」
 猫耳を確認しても驚きもせず、鉄ちゃんは真剣な眼差しを、なおも送る。
「鉄ちんが居なくなってから、ほどして猫化した」
「そうか」と吐息を零して、鉄ちゃんはフードを捲った。
「鉄ちん――」
 ひょひょこと小刻みに動く、鼠色した毛並みの猫耳が生えていた。すぐにある事を閃いて、鉄ちゃんのジーンズを下げる。すると体と床に挟まれた猫の尻尾が顔を出した。芋虫のように尻尾が暴れていた。
「……と、とりあえず、落ち着こうか」
 私が告げると、鉄ちゃんは「そうだね」とジーンズを戻して立ち上がった。雨に濡れた衣服が気になったため、鉄ちゃんに体を温めるように促した。
「お風呂入りなよ」
「そうするわ」
 無言のまま、リビングにあるパイプベッドへと身体を放り投げた。一度軽く跳ね、浅く身体が沈む。
 脱衣場もないトイレ兼用の浴室から、シャワーの音が聞こえてきた。玄関すぐ傍に備え付けられた浴室兼トイレの前に、鉄ちゃんの衣類が無造作に放り出されていた。それを横目に眺めながら、鉄ちゃんの部屋着を用意しないとなぁ、と考えていた。
 私はベッドからするりと転げ落ちた。


 ☆


 雨のようにザ――ザ――と、鉄ちゃんの身体に水道水を浴びせているシャワーは鳴り終えた。蒸気が渦を巻くように身体中から立ち上《のぼ》らせて、鉄ちゃんは頭を拭きながら浴室から出てきた。下半身に何も纏わず、バスタオルで全身を拭きつつ笑顔をみせる。
「なあ、着替えある?」
「そこに置いてあるよ」と、鉄ちゃんの足元に置いていたパジャマの上下と、トランスを指差した。
「ありがと」
 鉄ちゃんはトランクスを穿き、乾ききっていない濡れた身体のまま、肩にパジャマを掛けた。ベットの上で脚を抱えて座る私の傍に寄り、鉄ちゃんは肩を抱く。
「準備いいね」
「まあね、鉄ちんの帰りを待っていたしね。でも、すぐは駄目」
 すうっと身体を背けた。私は鉄ちゃんのパジャマを準備するついでに、同じくパジャマに着替えておいた。何もないとは、思っていなかったからだ。しかし、なし崩し的に性行為は勘弁願いたかったため、一度距離を置く。かただか数センチだが、幾ら鉄ちゃんを愛していても、これまでの音信不通を性行為で誤魔化されるのは我慢ならなかった。
「お前の猫耳、可愛いよ」頬笑みを魅せつけ、唇を奪いにくる。
「誤魔化すな」心に反して抗えなかったが、微々たる最後抵抗手段――口を噤み進入を防いだ。
 ブラウスの上からしっかりと乳房を弄られる。ブラジャーは着けていなかった、生地の上からでも感じてしまいそうになる。更に鉄ちゃんは、ちょんちょんと噤んだ唇を優しく甘えるように小突いてくる。
 “あまえても無駄”と言おうとして粘り付いた唇を開いた瞬間に、鉄ちゃんの舌が入り込んできた。にゅるにゅる、ぷつぷつと粘着系の、泡が弾ける音が雑じりながら絡み合った。唾液が口内に溢れ出す、鉄ちゃんは転がすように唾液を弄び、私の舌を縦になぞりあげて強引に唾を喉へ捻じ込む。
「ほら、飲んで」
 身体をぐいと引き寄せられ、鉄ちゃんの腕が腰の回りに纏わり突いて、胸と胸が合わさる。力強く締め付けられた私は、呆然として体内から分泌され混ざり合った体液を、喉を鳴らせゴクリと飲み込んだ。
 鉄ちゃんと私は額を付けて見つめ合う、満面の笑みを浮かべた鉄ちゃんを凝視すると何も言えなくなり、逆に私が唇を奪っていた。鉄ちゃんのアホたれに強引に気持ちを高められ、無我夢中で口周りを這わせ貪り尽くす。我を失い強く口を押し付けていたため前歯が当たり、硬い金属音のような高い音色が部屋中を駆け巡っていた。
「鉄ちぃん……卑怯だ」
 鉄ちゃんの身体の上に跨り、ブラウスのボタンを二つ外し、頭と腕を抜いて放り投げた。前かがみになり、重力で下がる乳房の先を鉄ちゃんの胸に擦りつけながら――私は喘いだ。
「うっさい。俺も色々あんの――そういうなって」
 悪戯っぽく鉄ちゃんは笑う。すうっと鉄ちゃんは私を抱きしめ身体を薙ぎ倒し、くるりと反転して鉄ちゃんが上になった。
「こんな誤魔化し方をしていると、将来絶対に上手くいかないぞ。えっちで丸め込んだって、長続きはしない」と先手を打ち、訝しげに睨みつけた。
「じゃあ舐めてくれたら、ちゃんと言うから」
「いつもフェラしているだろう、阿呆か」
 鉄ちゃんは私の首筋に舌を這わせて、乳房の先端に向かって進行する。先端に到着すると全身に電気が走り、鉄ちゃんの肩に腕を回していた。
「さすがに今日は、してくれないかなって」
 左乳首を舌で転がしながら、上目遣いで苦笑する。私は「自覚があるなら説明しろ」と、肉球で鉄ちゃんのつむじの辺りを軽く叩いた。
 だらしなく頭《こうべ》を垂れる鉄ちゃんは、「すみません」と申し訳なさ気にぽりぽりと鼻面を掻く。
 溜め息を一つ吐く私は母性本能が擽《くすぐ》られる形となり、頭をあげて唇に軽くふれフレンチキスをした。普段は適当な性格の癖に、重要な場面では凛々しく、性行為では“甘えたさん”の鉄ちゃんが本領を発揮し、理論も筋道も吹き飛ぶほどに身も心も焦がされ犯されていた。
「どこから説明したらいいのかな」
 ベッド代わりにしていた私の身体から転がり落ちる鉄ちゃんは、隣に寄り添い仰向けになる。私の首下に腕を差し込み、鉄ちゃんは枕代わりにしてくれた、少し息があがる。鉄ちゃんは「とりあえず」と、この状況から把握しきれない、しかし実に鉄ちゃんらしい行動を取る。
 鉄ちゃんは私の手首を強引に掴んで、腰にあるトランクスのゴムを掴ませた。
「脱がせて」
 母性本能が更に加速し膝まで摺《ず》り落とした、そうして触りなれたペニスへとあてがわれる。ペニスの静脈が浮き出しどす黒く異形を放つが、掌の感触は通常通りしっくりきていて、収まりきれない亀頭の先端は軽く塗れていた。ぬめりとした透明な液体を肉球で伸ばし、粘膜と共に撫で回してやると反射的に鉄ちゃんは「にゃぁあ」と喘いだ。
 ――猫。
「鉄ちん、猫」
「猫だ」
 二人して天井を見上げ、鉄ちゃんにあてがわれたペニスをこね繰り回しながら、緩急の隙を突いたようにピタリと時間が停止した。今度は手首を上下にストロークさせられ、爪で皮を引っ掛けないようにしてシゴク。
 私は身体を傾けて、鉄ちゃんの身体に添わした。頭を鉄ちゃんの胸板に載せ、定期的に奏でる鼓動を感じ取っていた。
 鉄ちゃんは思い出したように「そうそう、猫だよ」と自己解決して、猫猫、と反復しながら語り始めた。
「あの日、俺実家に帰っただろ? 俺さぁ、猫のお墓掘ってた時のお前見て、正直びびったんだよね。なんか、中途にお前と付き合えないわって。だってさぁ、何に対しても真剣で本気だし……お前の姿見てたら、下手な事出来ないと感じたよ。冗談抜きでお前の事振ったら殺されるか自殺するか、どっちかしかなさそうだから――四、五日考えてた。それでさぁ他の女に走るにしても、お前の事振る訳にもいかないから自然消滅だよな、とか思ってて……あの時はホント怖かったんだよ。お前の事好きだけど、お前の事受け止める自信ないしさぁ。何にしても、このままって訳にもいかない気がして」
 急激に鉄ちゃんの鼓動が高まった、心拍数が異様にあがる。更に困惑した面持ちで「肉球がやばい、気持いい」と微笑んだ。手首を掴む力が抜け、私の意思でストロークを始める。
「この前朝起きたら猫になってた、しかも鼠色の猫。あれは焦ったねぇ、それでもすぐに……あぁ、あの時の猫の仕業かと、自然に受け入れてたよ。こりゃお前から逃げられないわってね。腹が決まったから知り合いの女の子に電話して、関係を切った」
「それは浮気相手か?」
 鋭く鉄ちゃんを抉る。鉄ちゃんは首だけを横へ向け視線を逸らした。ここまで来ておいて誤魔化す鉄ちゃんに鉄槌を喰らわすべく身体を伸ばし、鉄ちゃんの顎の辺りに頭部を叩き込んだ。
「……女友達」
 貴様、保身か……男などは可愛い生き物で、こういってやると簡単に折れてしまう。私は優しく、そして激しく問い詰める事にした。
「友達だったら縁を切らないだろう、正直に吐け鉄ちん。フェラしてやらないぞ」
「え――気になる女の子から浮気相手まで、全て女友達になりました」
 解れば宜しい。しかし、ここは正念場だ――執拗に追い込みを掛ける。
「私は?」
 鉄ちゃんは遠まわしに、しかし気持ちをストレートに伝えた。
「猫共々、どうぞ宜しくお願いします」
「こちらこそ、おねが――」
 両手首を掴まれた私は、馬乗りになる鉄ちゃんに唇を奪われた。
 唾液で汚れていた唇は少し乾き、お互いの気持ちを確かめるようにフレンチキスを繰り返す。何度もキスを繰り返し、数え切れないほど唇は重なり合う。鉄ちゃんはすっと顔をあげ、もう終わりなのか? と思ったその時に不意を突いて又キスをする。鉄ちゃんは目を瞑り、唇を離すと笑顔を魅せ又目を瞑りキスをする。この繰り返しが続いていた。最初のうちは私も目を瞑っていたが、中盤に差し掛かると眼を見開いて、そのさまを眺めていた。
 ぴりぴりと全身に痙攣が走り始める。息が耳から頬にかけて掛かるたびに、膣が準備を始める。子宮が鉄ちゃんを欲しがり、うち太ももが擦れ合い、もじもじとしてしまう。
 このキスの応酬に満たされて、私は鉄ちゃんの後頭部を抱きしめ、長い長い口づけをした。圧迫された鉄ちゃんの息が切れ、それでも唇を重ね続け、鉄ちゃんの鼻から熱く荒い息が顔中に纏まりついていた。


 ☆


「にゃぁあ――」
「にゃにゃにゃにゃぁあ」
 鳴き声が部屋中に響き渡る。いままでになかったほど、幸せの絶頂を感じ、切ないほどに“泣き声”が木霊した。パイプベッドの軟《やわ》いスプリングが壊れるのではないか、と考えてしまうほどベッドは軋み、四脚は床に引っ掻き傷を残していた。
「お前、声デカ過ぎにゃ」
「私に言うにゃ、猫に言ってくれにゃん」
 信じられないほど声が大きい、半猫化が原因のようだった。鉄ちゃんが私の襞を掻き分け、濡れきった膣にペニスを挿入すると呂律が回らなくなった。半猫化がもたらす効果は、オーガニズムを感じ始めると声帯絡みに猫化が進む、と推測した。
「にゃにゃにゃにゃ」
「鉄ちんも大概五月蠅いにゃうん」
「猫に言え、にゃあ――猫にぃ」
 正常位の体勢で、鉄ちゃんは私を正座している形を取らせる。膝が折り曲がり、太ももと脛を一緒に腕で巻き込みピストンを繰り返す。鉄ちゃんは、だらりと脚をおおぴろげ垂れ下がるのは脚が浮くために、私が辛い体勢だと思っていて、コンパクトにまとめてくれる。
 性行為中の鉄ちゃんは、異様に優しいというのだろうか、やたらと気を使ってくれるため愛情を感じる。
「鉄ちん、もっと……もっとして、にゃんっ」
 鉄ちゃんを感じたいための卑猥な懇願。羞恥心が私を襲い、膣からは愛液が溢れ出し、更に乳首も硬化する。眼が充血し始めた鉄ちゃんは眼球を奥に据え、睨みつけるようにして腰を挿し込み続ける。
「みゅぅぁあ」
 ストロークが短くなり、子宮口にペニスがコツコツ当たる。「みゅみゅみゅみゅぅう」口がだらけきった私は悲鳴をあげ、鉄ちゃんの首に手を回し、乳房の谷間引き寄せる。たぷたぷと乳房は楕円を描いて、鉄ちゃんの両側面を叩きつけていた。
 陰毛同士が密着して、鉄ちゃんは膣内の、繊毛が取り巻く天井を強引に突きまくった。密着する陰毛は、高まりきった身体が反応して捲りあがり、剥けたクリトリスを刺激する。
「みょみょみょっ、うみゅぅ」
 自制出来ない気持ちと身体は、異常反応をきたして狂ったように悲鳴をあげる。雌猫、お前も鉄ちゃん猫を感じているのか、欲しい……
 欲しい――鉄ちゃんが欲しい。
 欲しい――鉄ちゃん猫が欲しい。
「締めるにょ、気持ちいいから、もっと締めるにょ」
 ペニスで掻き回し、鉄ちゃんは吼えた。
「にゃん」
 汗だくの鉄ちゃんは谷間から顔をあげ、額から大量の汗が噴き出し「逝く逝く逝くにょ」と連呼した。ぐぐぐ、と肛門辺りの筋肉を縮め、小陰唇の肉襞をペニスに絡め膣口を固く結ぶ。
「みゃあ――」
 鉄ちゃんの強請《ねだ》るような奇声があがり、乱暴に膣内を突き上げた。私の腋《わき》に手を送り、抱え込むようにして肩を掴んだ。
「にゃう……」
 やわらかな肉球が肩を包み込むが、手加減出来ない鉄ちゃんは剥き出しの爪を鎖骨に喰い込ました。爪が突き刺さったまま鉄ちゃんは、私の身体ごとペニスに向かって引き込み、その動作に合わせて突き上げる。
 天井の繊毛を掻き毟るかの如くペニスが暴れ、神経が焼き切れそうになる。制御しきれない交感神経が猛威を奮い、視界が歪み白くぼやけ――ただ「鉄ちぃん、鉄ちぃん、うみゅう」と、泣きじゃくっていた。
「出すにょ」
「いいにょ」
 霞む視界の中に、鉄ちゃんの眉をしかめ悶える顔が浮かびあがる。大口を開いていた私の唇を覆い隠し、鉄ちゃんの口で塞がった。技術も何もない、本能だけで舌が絡み合い唾液が多量に溜まる。唾液腺からドーパミンが噴出するように――生暖かくねとついた唾液が分泌され、鉄ちゃんの唾と融合して飲み干した。
 鉄ちゃんと私の大量の唾液が喉を過ぎ去り、喉越しを感じた刹那……
 にゃ――
 にゃ――
 同時に、逝った。


 ☆


 そろそろ蛍光灯を点けようか、そう感じ窓の外をまどろみながら眺めてみれば、太陽は街へ深く沈み込み、雲に蔽《おお》われた月が顔を出す。辺りは薄暗くなり始め、雨は濃霧のような状勢を呈していた。鉄ちゃんと私は寄り添い合い、互いに絡み合うように寝そべっていた。
 膣内に射精すると鉄ちゃんは、「ちょっと待ってね」と笑顔を浮かべ指で掻き回し、精子を刮ぎ出していたのに今回は違った。鉄ちゃんは逝くなり私の身体に倒れ込み、ペニスを抜こうとはしなかった。注ぎ込まれる感覚、通常であれば子宮手前――膣道付近に射精するのだが、子宮口にペニスをあてがい直接精子を放出した。この子宮内に“鉄ちゃん”が充填され、満たされる充足感。
 鉄ちゃんとの性行為の、お互いの気持ちが高まりきり稀に注ぎ込んでくれる精子を、子宮内で感じ取れる絶頂時に殺されるなら、私は世界中で一番の幸せものだと断言出来る。鉄ちゃんの愛を感じ、このまま寝てしまい眼が覚めなくても結構。
 ――この先鉄ちゃんと別れるぐらいなら、この場で殺されてしまいたい。
「どうした?」
 鉄ちゃんは、私の髪をぐじゃぐじゃと撫でる。「うんにゃ、何にもない」と首を横に振り、鉄ちゃんの頬にキスをした。
「鉄ちん、諦めはついたのか? 一生傍に居て離れないぞ。アレだ、ひっつき虫だな」
「諦めって何か言葉悪いなぁ、お前に決めたんだよ。そういっても相手しくれるヤツが……だって、猫だしな」
 ひょこひょこと鉄ちゃんの猫耳が動き、笑ったように思えた。
「そりゃそうだ、猫だしね」
「ねー」
 そういって鉄ちゃんは、自分の頭を私の頭へと押し当てる、コツンと軽い音がした。仕返しに、肉球でぺしっと鉄ちゃんの猫耳をはたいてやった。
 鉄ちゃんと二人でじゃれ合っているうち睡魔に襲われ、鉄ちゃんの身体の上に、圧し掛かるような格好で眠りについた。目が覚めるまでの間、人肌に暖められ猫のように丸まって眠る。押し潰された鉄ちゃんの唸り声が、微かに聞こえていた。



 4.
 目が覚めると昼前だった。時計は十一時を指し、長く寝すぎたせいか、空腹のためお腹が鳴る。気が付けばタオルケットがなくなっていて、鉄ちゃんも居なくなっていた。眼が乳化したように、アイボリー色に視界がぼやけていた。昨日鉄ちゃんと戯れて、本気を出しすぎたかも知れない、と全身の気だるさが身体を支配する。
 窓から射し込める陽の光は、ランプのように部屋中を照らし出す。ぼんやりと包まれる部屋を見渡して、徐々に意識が醒めていった。
「あれ、鉄ちんは?」
 とりあえず、洗顔等シャワーを浴びる前に鉄ちゃんを探す。辺りを見渡しても人影一つも確認出来ず、仕方なく先にシャワーを浴びる事にした。コンビニへ何か買いにいっているのだろう、と適当な理由付けをしている自身に、軽く笑いが込みあげてきた。
 ――痛え。
「鉄ちん?」
 急な訪問者を思考して、裸体のため――人に魅せるほど良いものではないが一応の準備をしておこうと――床に転がっていたタオルケットを取るため、ベッドから降りた瞬間。
 ――苦しむような悲鳴がした。
「昨日から、攻撃しすぎ」
 足の裏にやわらかい感触を覚え足を退けてやると、タオルケットの中からひょこりと、鉄ちゃんが顔を覗かせた。
「殺すきか!」の鉄ちゃんの一言に、私は「私のために死んでくれ、そうしたら一生心配しないで済む」と頬の筋肉も緩ませず、真顔でいい放ってやった。
「もう勘弁してください」
 鉄ちゃんはうな垂れた。
「冗談だ、半分は本気だけどね」
 タオルケットになかなかの山を建てた鉄ちゃんの、そのペニスを軽く足で突いてやる。鉄ちゃんは不貞腐れて床を転がり、膨れた面で伏した。
 ――ん? 疑問が脳を貫いた。私はすかさず鉄ちゃんの包まるタオルケットをひっぺ返し、頭と手と足と腰の辺りを凝視する。「ない、ない」私は全てを確認すると、猫の姿は消え去り正常の姿に戻っている事が解った。
「鉄ちん、普通の身体に戻ったぞ」
「ああ、何の事?」
 寝ぼけ眼の鉄ちゃんはそっとしておいて、少々躊躇いながら自身の頭に触れた。ない、ない――私の頭にも猫耳がない。思わず鉄ちゃんの体に向かって飛び込んだ。「元の身体に戻っているんだよ!」私は、現状をよく理解していない鉄ちゃんの首元に腕を巻きつかせ、ぼさぼさの髪を掻きじゃくってやる。
「な? 猫耳消えているだろう」
「……あっ本当だ」
 鉄ちゃんは忙しなく身体中を見渡して安堵、私の身体を触り倒して満足気にする。調子付いた鉄ちゃんは、どさくさに紛れて私の太ももに手を添わし、肉襞をなぞりあげる。「ここも大丈夫だな」そういいながら、肉襞の頂上にあるクリトリスを刺激した。
「元々そこは猫の影響を受けていないぞ、分かっている癖に。鉄ちんは朝から元気だな」
「まあね」
 満面の笑みを浮かる鉄ちゃんと見つめあい長い沈黙、鉄ちゃんが何も言わず目を瞑った。鉄ちゃんの背中を指で縦になぞってやると、静かに唇がふれ合い――私も目を閉じて少し冷たい唇の感触を感じる事にした。
 ぱらぱらと雨の降る音、雨脚を弱めていた。あの日から降り続いていた雨も、徐々に雨あがりを予感させる。


 ☆


「傘もっていこうか?」
「いらない、多分あがると思うから」
 鉄ちゃんは靴紐を結び、ブーツを履いている最中聞いてきた。私は玄関のドアに背中を傾けながら答えた。少々雨模様だったが、理由はあるようでないけれど、雨はあがるような気がしていた。
 これから鉄ちゃんと、近くの食堂へ昼ごはんを食べにいく。
 あの衝動的な性行為の後、二人でお風呂に入り出掛ける準備をした。鉄ちゃんは頭を適当に拭いただけで服を着ようとしたため、無理やり座らせてドライヤーを掛けてやる。早々に準備を終えた鉄ちゃんは、ごろんとベッドで横になっていた。私はカジュアルな格好に着替え、薄くファンデーションを塗り薄いピンクのリップクリームを唇に載せ、足早に準備を済ませた。
 表へ出ると、いまだ雨はやんでいなかったが、空は蒼く雲の合間から陽が淡く射していた。ぱらぱらと降る雨は傘を差すほどでもなく、寧ろ心地よく感じる事が出来た。
 取って付けたような公園の一角にある、お墓へと足を進める。子供が一人も遊ばない公園は、猫専用の霊園墓地のような様相を呈していた。鉄ちゃんの絆を強く結びつけてくれた大事な猫のお墓だから、霊園墓地になる事は、ある意味都市条例に感謝をしたいぐらいだった。
 長くに渡り雨が降り続いていたもので、足場がぬかるんでいた。よろけないように鉄ちゃんの手を取って寄り添い、お墓の前でしゃがんだ。肩から下げていたトートバッグの中からお菓子を取り出して、お供えをして手を合わせる。
「あれ?」
 お墓の隣にも、地面が盛り上がり、お墓らしきものがあった。頂上には同じく、小皿ような拳程度の石が備え付けられていた。
「ああ……それね、俺が作ったお墓」
 不意に予想外な事を伝えられ、一瞬たじろいて混乱した。
「実はさ、迷っている間にも何度か近くまで来てたんだよ。そしたら、あの鼠色の猫がお墓に倒れてたから」
「そうか」私は頷いて、トートバックから飴を二、三個取り出し、鉄ちゃん猫のお墓にお供えをした。鉄ちゃん猫も協力してくれたんだ、と猫たちのお墓へ深々とお辞儀をして祈る。幸せでありますように、と。
「そんな所で煙草吸っていないで、鉄ちんもお辞儀しなさい」
「はいよ」
 鉄ちゃんも煙草を咥えながら、手を合わせた。流石の鉄ちゃんも鉄ちゃん猫に対して、文句を吐き付けてはいないだろうが、おどけて悪態の一つも吐いているかも知れない、と私はくすりと肩を竦めて、鉄ちゃんの尻を叩いた。
「いこうか、鉄ちん」私は鉄ちゃんの腕を取った。
「いや、線香あげないと……」
 咥えていた煙草は、水面に石灰を落とし拡散したように灰が零れ落ちた。ほぼフィルターのみ残る煙草を摘まみ、鉄ちゃんはお墓に挿した。私は猫たちのお墓をよくよく眺めてみると、何本か煙草のフィルターが挿されていたのが分った。
「鉄ちん、ご飯を食べた帰りに、線香買って帰るから」
「煙草じゃ駄目ですか?」
「当たり前だ」
 鉄ちゃんの手を取り、足早に駆ける事にした。引っ張る力が徐々に緩まり、鉄ちゃんは澄ました面持ちで抜き去った。そうして私の腕を引っ張った。近くの食堂まで競争し、先に着いた鉄ちゃんは私に向かって頬笑む。負けた私は鉄ちゃんの胸に飛び込んだ。
 ――太陽は雲から顔を出し、雨のあがりを教えてくれる。涙のように降っていた雨はやみ、服に含んでいた涙が、息があがる身体の熱によって昇華してゆく。軒先から落ちる雫は太陽の光を屈折させ、水たまりや木の葉に浮かぶ雫――全てが光を反射させた。辺り一面はキラキラと輝きに満ち、霞む陽射しはきつく、飽和した大気を照らし出していた。

  1. 2006/09/11(月) 02:11:35|
  2. 中編作品|
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星の屑

 私は素直フランソワ。理解のあるオトンとオカンのお陰で隣の居酒屋の娘になり、その居酒屋の親父はフランスに修行に行った事になった。まあ、詳しい説明は“素直クール保管庫”WIKIに在るSS姉弟シリーズを読んでくれ。大体把握出来ると思うから。
 そうして私事フランソワは、髪は脱色して緑のマネキュワを入れて、フランス人っぽくなり、弟とエロエロ出来る事になった。まあかなり強引ではあるが、コレは仕方が無い。だって、私は弟の事を凄く愛しているから。
 素田よ元気にしているか? 先の2チャンネル素直クールスレでは、同じく朝方投下にてお世話になったな。一度姉弟シリーズに使わせて頂いた、感謝しているよ。素田よ、男を大事にヲタクの道へ引きずり込めよ。
 ファーストシリーズより約一ヶ月ぶりだが、私は素直学園の朝礼、朝礼台の上に立ち、下級生同級生の前で宣言する!
 弟よ、今これから始まらんとしている事は解るか? 弟よ、この星の屑が分かるか? 待っていろ愚弟。
 そうして私は、又――――
「私は、帰ってきたああああああああ!」
 星の屑乗じるままに、新姉弟シリーズ“星の屑”あんパン作戦実行である。


 1.
「皆のモノ良く聞け! これから始まる素直クール祭は、素クール再興の為、なくてはならない作戦である。今や、ツンデレに勢力を奪い返され、新興勢力渡辺さんに侵食され、最後の砦シュールとクールの闘いである。勝たねばならぬ! 更に宣言する! 我々が残された拠点は素直学園、コレのみである。皆のモノ振るい立たせろ! あんパンを持て! 槍を持て!更に米を持て! 最後の兵器トゥールハンマー(ひどいできばえの最初の武器)の餌食にしてやるぞ! 星の屑乗じるままに、星の屑あんパン作戦実行!」
 朝礼台の前に並ぶ生徒達が、一気に湧いた!
「素直クール万歳! 素直シュール万歳! ジーククール! ジークシュール!」
 うをおおおおお! と、約千人の生徒達が雄叫びをあげた!
「では、生徒諸君らの成果を期待する。以上!」
 この後約三十分間は、ジーククール、ジークシュール。と歓声が学園中に響き渡った。


 ☆


「穂種、空、投げやり。居るか?」
 そういって私は、生徒会室のドアを開けた。中には三人の仲間が、会議用の椅子に座っていた。
「揃っているようだな」
 ああ、と答える黒髪の生徒。素直空(スナオクウ)副会長。会議用テーブルの上に学園内の地図を広げ、何か考え込んでいた。すらっとしたスタイルで、切れが良く眼鏡がシンボリックな面持ち。美しい女性とはこういうモノか? と、思わせる程綺麗な副会長だ。
「差し入れだ、ほれ」
 おかかのおむすびを放り投げ、受け取る少し茶色掛かった髪の生徒。素直穂種(スナオホダネ)書記係。今空の発言を、ノートにアラビック文字で記録を残す強者(ツワモノ)。背は小さく、ぷっくりしたホッペは、同じ女から見ても可愛らしい。そばかすが似合う、キュートな書記係だ。よく理解に苦しむ事を発言するが、ソレが男達にモテモテだ、そうだ。
「おかかは駄目だ! 蛙が鳴くから」
 そうか、と私は言って、じゃあ、次は明太子にするよ。と返し、生徒会長専用の肘掛付の皮貼り椅子に座り、仰け反る。
「なげやり、起きろよ」
 テーブルに上半身を乗せてだらけている生徒。素直なげやり会計係。その名の通り、会計もなげやり。
「身体を起こすのもメンドイ。このままでいいかな?」
「別に構わないが」
「ん。あー喋るのも、めんどくさくなってきた」
 蒼み掛かった髪のショート。6時間目は体育の授業だったのだろうか? 着替えるのがめんどくさかったのだろう、体操服姿でテーブルの上を寝そべっている。この中で一番のバストの持ち主だ。
「3文字以上喋らせないで欲しいな」
 そう言って、椅子から転げ落ちた。あーめんどくさい。そういってヤル気がなさそうに、マグロのように転がって、話しを聞く。「今回は朝礼でイキナリだったが、これから星の屑あんパン作戦の会議に入る。以前から空と話をしていたのだが、明日から実行に移す。空、説明。よろしく頼む」
 素直なげやりは地べたに這い蹲り。素直穂種は、手持ちぶたさでボールペンを回し、失敗してはデコにぶつけ、西条ヒデキ、ヒデキ感激! と呟いていた。この素直学園きっての秀才、素直空は黒板に素直学園内の地図を貼り付けて、例の作戦の説明に入っていた。
 私、素直フランソワは足を組み腕を組み、会長専用肘掛付椅子に座り仰け反る。
「空! 説明」
 そう言うと、空は眼鏡を中指でくくっと上げて、ガラスを光らせた。
「今回の作戦、星の屑あんパン作戦は、予てより当学園理事と協議した結果。提携の工場に約百万個のあんパンを、発注出来るようになった。ソレらあんパンを、学園最終兵器トゥールハンマー。『正式名称:素直式科学兵器局地型対空迎撃用集中電磁砲』に装着し、使用例外ではあるが、敵学園ツンデレ学園に直接発射。のち主流属性連合軍。ツンデレ軍約二千五百名、渡辺軍約九百名。計約三千四百名が当学園に乗り込んできた際に、星の屑あんパン作戦実行である」
 テーブルを叩きつけながら力説する空。しかし、穂種、なげやりを見てみると、さーっぱりわやや。と、言わんばかりに眼を点にしていた。しょうがない。
「空。穂種となげやりに、もっと分かりやすく説明してやれ」
 再度眼鏡をくいっと定位置に戻し、まるで小学校の先生になったように、優しく囁く。
「穂種、なげやり。よく聞いてね。屋上にバズーカみたいなモノがあるでしょ? そのバズーカを遠くのツンデレって学校に当てて、怒ったツンデレ一味が私たちの所に来るでしょ? それであんパンを一味にぶつけるの。分かった?」
 あらかた噛み砕いたモノの言い方で、空は説明する。
「まあ、そんなトコだな。穂種分かったか?」
「うん! 分かったぞ。うちは昇竜拳アイツはララバイ。二人はランデブーだな」
 穂種……少し違うような。ふう、確認するか。私は空に問いかける。
「空。どうだ? 穂種は理解しているのか?」
「会長。そうですね、少しニュアンスは違いますが、大体は把握しているようです。ですから……」
 少し考えて、空が話を進める。
「穂種。ララバイだと、ちょーっと違うから、こう。穂種は昇竜拳アイツはトラブル。二人はリンデンブルクね」
「会長! これで問題ないと思われます。トラブルに意味合いを変えると、ランデブーに掛かってくる言葉が変換しますので、リンデンブルクの活用形になります」
「良し解った。なげやりはどうだ?」
 かめはめ破! かめはめ破! と穂種が喜んでいる横で、よだれを垂らしながら溶けそうな、そんななげやりに聞く。するとなげやりは、投げときゃいいんだろ、投げときゃ。と言う。まあそういう事なので、気にせず話しを進める。コイツはこう見えても中々物事を把握しているから、話が早くて助かる。
 コレで大体は伝達したな。後は明日の作戦を実行するのみだ。空が居れば大丈夫だろう。それでは――
「良し今日の会議は終了。明日に備えて、男に甘えるんだぞ。以上!」
 私は立ち上がり、生徒会員を見守る。
 失礼しました、会長。と言いながら少し笑みをこぼし、凄い速さでドアを開け駆け抜けていく空。ドアを開けて直ぐの角を曲がりきれずに突っ込んで、鼻血を出しながら猛スピードで過ぎ去って行った。
 ふふふ。彼氏が待ち遠しいんだろうに、くっくっく。
 すると――会長。ビバリーヒルズ青春白書。と言って、穂種はでんぐり返りで表に出て行った。ドアの向こうでは男が待っているようすで、穂種が電波を飛ばしたのだろう。ドアの向こうでは、『男! 今から釣堀に河豚釣りに行くぞ! 米持ったか?』と言う声が聞こえた。『そんな事言ったって、河豚の唐揚は釣れねえゾ』そんな事を穂種と彼氏が話していた。
 可愛いな穂種。楽しく遊べよ。
「弟。今日は遅くなりそうだよ」
 又私は肘掛付椅子に腰掛けて、夕刻の空を見つめる。今だ体操服のなげやりは、地べたに寝転がり、既に寝息を立てていた。
「コイツ気持ち良さそうに寝てやがる」
 リアルで鼻ちょうちんを見るのは初めてだが、なかなか面白いものだ。いってみれば、なげやりだから許される行為なのかもしれない。ふふふ。
 仕方なく、投げやりの彼氏に電話をする。
「今すぐ迎えに着てやってくれ、そうだ。生徒会室だ」
 間もなくして、なげやりの彼氏がやってきた。
「フランソワ先輩、すみません」
 ドアを開けたそうそう、私に謝る。まあ、いつもの事だからいいさっ。と言ってやると、彼氏はなげやりを見ながら。
「うわっ。寝てる。めんどくせー」
 と言って、なに食わぬ顔で、なげやりの横に寝そべり、フランソワ先輩。連れて帰るのはめんどくさいので、俺も寝ます。と言い放ちやがった。
「お前もなげやりかよ……」
 又肘掛付椅子に座り、頭を抱えた。そうして、夕方から夜になりそうな時刻に、私は家に帰ることにする。
 寝ている二人に、お疲れ。と言ってパタリと、ドアを閉めた。


 2.
「ただいま」
 家に着いた途端私は限界を超え、自室に駆ける。バタンと戸を締めて、すぐさまPCを立ち上げ、タイムラグ。
「この時間だけは、本当に何とかならんもんかな?」
 FMタウンズ――タウンズドスの立ち上がりを、じくじたる想いで待ちわびる。
「良し」
 モニター関連のフォルダーを開き、例のソフトをクリック。弟の部屋をウォッチ、コレが私の日課だ。愛して病まない弟を、リアルタイムで情報収集しなければ――いつ、いかなる時に弟の身に何かあるか分からん。弟にとって、神に等しきおねーさまの当然なる勤めだ。
 眼を移すと、ぼんやりと愛すべき弟の部屋がモニター上に、映し出された。
「ふふふ、いいな。偵察用アイザック……コレがお前の力か!」
 一度は、ガンダム屋で偵察用ザクフリッパーにしようかと悩んだが、アイザックの頭から伸びる探知機が、私の心を抉りこんだ。もうコレ以外何も見えない。家に帰ってせっせと改造。愛くるしい弟にプレゼントした。確かホワイトデーだったような気がするが。
「あああ! 貴様、何をやっているんだ!」
 モニターに映し出される弟の部屋には、他校生女が居た。くぬお! 信じられぬ、弟に彼女が出来ていたなんてっ。あ、あ、あ……ありえない。
「そこかあ! クソ弟、今助けに行ってやるからな」
 ブレザーの上着をベットに放り出して、弟の部屋に駆け込む。そのドアノブを握り開けようとすると、ガチャガチャ、ガチャガチャ。シッカリと鍵が。
「大丈夫か! 大丈夫か! 弟。シッカリ気を持て、おねーさまが今助けてやるからな」
 アレは、あの女は、弟の彼女じゃない! 断じて違うぞ。何かしらの誘惑を掛けられて、洗脳されているんだ。ううう、私は違う。弟を洗脳などしておらぬ。恐怖政治を強いているだけだ。弟は意識を保ちつつ、私の下僕として君臨しているだけだ! うろたえるな。自己を保て、取り乱すな!
 ほおおお、今必殺のサガットの腹をも抉るこの拳。身体に纏うオーラを解き放て!
「素クールカッター」
 握り締めていたドアノブを、一気に捻る。めりめりめり……と、ありえない音を立てながら、ノブを元から捻じ切った。
「はあああああああ」
 根元から捻じ切ったドアノブを投げ捨てて、勢いに任せて弟の部屋のドアを蹴破った。中には楽しそうにしている弟と、見たことのある顔がソコのあった。
「貴様っ!」
「あら、久しぶりね。フランソワ」
「会長!」
 私の弟のベッドで横たわり、艶を出しながらゲームパッドを持って、淫靡にスーパーファミコンで戯れる――ツンデレ学園会長の姿が!
 ハタと弟の方に目をやると、気持ち良さそうにコイツの横で寝ているではないかっ。
「お前何しとんねん。イワスぞ、ごらあ」
「ちょっ、フランソワ関西弁、関西弁。アンタ自称フランス人でしょ」
「フランス人も関西人もあるかえ。弟、お前の横で気持ち良さそうに寝てるやないか。何かやったんやろ? いやマジで」
「怖、こわこわ、フランソワ落ち着きなさいよ。何にもしてないってばさ、ホントに」
「知るかえ! 自分、ええ加減にせえよ。バチコンかましたろか? デコに、いやデコに」
 すっと弟のベッドから飛び出した会長は、ドアの方へ逃げる。更に衝撃的な事実を叩きつけられた。――上ブラウス、下ショーツ。
「ぬああああ!」
 怒りと嫉妬。フランス人を舐めるな! ジェラシーが腹の底から巻き上がり、ブチンッと数万本の神経が引きちぎれる。私、フランソワ三十八世十八歳。意識は混濁の最中、思考は低下し狂い惑う。もう駄目だ。全く意味が分からん。
 ドアに、もたれ掛かったクソ外道は、足をバタバタとバタつかせジリジリとドアを開け、逃げようと四つん這いになる。
「ちょちょちょ、フランソワ。からかっただけよ、そうそう。からかってみただけだって。ね、ね、ね?」
 許さん! 貴様だけは断じて許さんっ。ふおおおおおおお…………
「素クールカッター」
 手の爪が掌に突き刺さり、跡が付く程固く拳を握り殴りかかる。その刹那。
「待った! アンタおもっきし打撲系の攻撃じゃない」
 会長の言葉で、一瞬立ち止まる。
「カッターって言うんだから、もっと素クールカッター的な攻撃しなさいよ」
 うううう。勢いだけで付けた名前で、こんな事になるなんて。しまった。さーっと私の頭に登っていた血の気は引き、少したじろく。
「ホントビックリしたぁ。フランソワ、少し落ち着きなさいね」
 会長は四つん這いのまま、部屋のテーブルの前に着き、横座りになった。
「アンタ、コッチに来なさい」
「ああ、スマンかったな。会長」
「まあいいわよ。昔のよしみで許して上げるわよ。私もちょこーっと、やり過ぎてたみたいだし」
「まあ、な」
 私もテーブルの前に着いて、横座りになる。素クールカッター。威力もデカかったが、反動もデカかった。


 ☆


 弟の部屋は高校生男子の部屋と言っても過言ではない程、男々していて良い香り。男臭がしていた。その中に私とツン会長、ベッドでスヤスヤと眠る弟が居る。何故か? 会長に説教を食らわされて正座している私が居た。素クールカッターがいけなかったのか……
 そう思いながら会長の長話に付き合っていた。
「だからね、フランソワはやり過ぎなのよ」
 いや、お前に言われたくないが。第一何故、お前は弟の部屋に居るのだ? 疑問は募るバカリだった。
「会長の言いたい事は解るが、しかし……弟の部屋で一緒にベットでお休みと言うのが、実にげせんな」
「なっ、何にもしてないわよ。ただね、ただフローリングが固かったからベッドで遊んでただけよ」
 ほほほほ。と、照れ笑いする辺りが相当胡散臭かった。私は自己の威厳を誇示すべく立ち上がり、ベッドの傍らに座り弟の頭を撫でた。
「ふっ、可愛いな」
 会長は見ない振りをして、おにぎりせんべいをかじりながら、スーパーファミコンのパッドを掴む。スーパーアレスタって、結構ハマるわね。かなり会長は気にしているが、誤魔化し方が会長らしいな。
 そろそろ本題に入るとするか……
「ソレで? 本当の目的はなんだ?」
「な、なによぅ」
「目的は何だ? と、聞いているんだ。只単に遊びにきた訳じゃなかろうに」
 ふうぅと一息吐いた会長は、パッドを床に置いてコチラを見る。マジマジと眼を見つめ合って、会長の口が開いた。面持ちは真剣そのもの、コレは何か在ると思い頭を撫でる手を止めて会長と向きを合わせた。
「私……弟君がす、す、好きなのっ」
 言葉を聞いた瞬間、立ち上がり、会長ににじり寄る!
「会長、冗談は程ほどにしないかっ。そんな事は嘘と分かっている」
「そんな事、そんな事ないんだから!」
 立ち上がる会長の肩を両手で押さえ座らせる。
「駆け引きはこのぐらいで良いだろう。お互い長い付き合いだ。そんな事でわざわざ来る会長では無い事は、重々承知だ」
 会長は脱力し、へたり込む。よよよよ……と、床へ横になりながら――
「酷い、酷いよフランソワ。真剣なのにぃ」
 ぐすぐすと言いながら泣いていた。そうして直ぐに立ち上がり――
「フランソワの馬鹿! 阿呆! 只の痴女!」
 凄い剣幕で私に罵声を浴びせ、少し茶掛かった髪を揺れ動かせて涙が飛び散り、逃げるように部屋を出た。
「ふう。結局誤魔化されたか……」
 目の前の床には、キャップが開いた目薬が転がっている。やはりな……アイツはいつもそうだ。上手い事逃げやがる。まっ、論破して誤魔化す私も同類なのかもしれんが。
 そうしていると、愛らしい弟君が起き上がってきた。
「あれ? あのおねーさんは何処行ったの? ってか、何でココに姉貴が」
「ふふふ、気にするな。ただお前を犯しに来ただけだ、心配するな」
 弟の頭を撫でてやった。
「ちょっ、十分過ぎる程身の危険を感じるんだけど……」
「今日は忙しいから、また今度な」
 会長の動向が気になる為、一時自室に戻り電話をする。その後にまた素敵過ぎて濡れまくってくる弟に逢いにくるか。
 私は、じゃあ又後でな。と弟に念押しして、すぐさま自室に戻り、机の上に在る携帯電話を掴んだ。ピポパと軽くボタンを叩いて、空の携帯を呼び出しながら椅子に座る。耳に携帯を当てた瞬間バイブが発動し、空か? と確認する。
 『は、ハイ……んっ。くっ、空です。どう、どう致しましたか?』
 こう来た訳だ。コイツ――やってるな。空にしては、かなり甘い声で鳴いている。何かと男と絡んでいる時に電話を掛ける事があるが、こんなにも可愛い声を出しているのは初めてだ。興奮しまくっていると見た。
「空。お前かなり色っぽい声を出しているぞ、お前にしては普通じゃないな」
 『ああああ。す、スミマセン。……ん、今学校の屋上で、くぅ……準備をしている所でっ。あっ』
「ほう。だからか」
 野外は初か。空は済みかと思っていたが、素クール属性。只のエロじゃないな。純粋に彼氏が好きで全てを捧げるか、そう考えると彼氏の方が変態になるな。くっくっく……
「空いいか? よく聞けよ。敵ツンデレの会長が愛すべき弟に接近して、情報を探りに来た。漏れたか漏れてないかは解らんが」
 『はうん。はっはっはっ、ハイ』
「星の屑作戦は修正、あんパン投下は中止。学園最終兵器トゥールハンマーを改造するが、電磁砲をそのまま敵本丸ツンデレ学園校舎に発射!」
 『んんんん……んんんん……すまない。少しだけでいいから、我慢してくれないか?』
「ん? 空。何か言ったか?」
 ふふふ、苦戦しているようだな。男、そのガッツが羨ましいな。ウチの弟ときたら、てんで駄目だからその力強さを分けて欲しい。そういっても素敵弟が目前に来れば、たじろいでしまうかもしれないが。まあいいか……アレはアレで母性本能をくすぐる。空は荒々しいほうが好みのようだ。多分空の事だ、そういう風に仕立てた。――仕上げたんだろうよ。
 『いえ、何も在りません。では、会長の仰る通りにしておきます。失礼します』
 まだ言いたい事が在ったのだが、伝えなければならない事は一応伝わった。これ以上邪魔をするもの気が悪いからな。男が、かなり限界だったから在りえないくらいに男が悶えていた。かっかっか。素クールとしてはいい事だ。
 そうして私は携帯電話を机の上に置いて、アイザックカメラで弟の部屋を覗く。
「はう。グッスリ寝ている。アイツは、何故こんなに寝れるのだ」
 すっくと立ち上がり、制服を脱ぐ。
「さて、と。参りますか」
 スポーツブラとコットンのストライブショーツを取り外して、弟の為にピンクと白のギンガムチェック上下フルセットを用意して、柄でもない下着を身に纏う。こんなもんかな?
 そう言って、自室を出て弟の部屋に戻った。


 3.
「ねーちゃん…………」
 ン? 何だ? もう朝か?
「ねーちゃん……」
 ふう。ああ、身体が気だるいなぁ。
「ぐう……」
 弟の声が聞こえて目を覚まし、カラカラに喉が乾燥してヴァーと声を発して乾きを確認する。目を開けるとソコには弟の栗毛のツムジが在った。
「がー、朝か」
 私は濁りきった声色で、があ。とゴロゴロと喉を鳴らす。
「ねーちゃん……」
 弟君は先ほどからねーちゃん、ねーちゃんと嬉しい事を言ってくれる。実際に私の事を呼ぶ時には、姉貴。と、言う癖に寝言では、ねーちゃん。
 実に素晴らしい。ブルリを軽く全身が痙攣して弟を想う。
 アレから私は最後弟の部屋に戻り、弟が爆睡しているのを確認してベッドに潜り込んだ。するすると弟の制服をぬがしてゆき、後は楽しいひと時をエンジョイメイクラヴ。まさにウサギの襲いかからんとするライオンのように、下半身を重点的に食い尽くした。
 いいな。凄くいいな。
 お互い裸でベットで寝て、弟越しに手を前に回せばソコに、まあ――在る訳だ。
「おはよう」
 弟の耳にふうう……甘い吐息混じりに言葉を掛ける。んん、ねえちゃん。と、身震いして身体を固める。
「ふふふ、弟それはイカンよ」
 むにむにむに……むにむにむに…………
「んんんん、ネエジャ」
「弟……はあはあはあ」
 あんあんと弟が鳴き、改めて弟の可愛らしさを再度確認する。コイツ……
「ちょっと、待て……待てろ言うとろ……きゃっ」
「ねえーねえーちゃん」
 がばっと、弟は起き上がり私に覆い被さる。ハタと弟を見てみるが、明らかに寝ていた。
「弟、お前……ヤル気か!」
「ねーちゃ」
 何だコレは。
 無意識の弟は、眼を瞑りながら私に優しく甘えてくる。
「うはっ、弟……可愛い。可愛すぎる」
 くはっあああ。ンンン――――私が弟の前でしか魅せない、エロい吐息がこぼれる。他の人間の前では虚勢を張っているが弟の前ではこんなにも女になるのかっ! そう思いながら、弟に全てを委ね好きにさせる。意識が全く無い弟は私の両手の自由を奪い、ひらすらに……ねーちゃん、ねー。と、言って上で暴れる。
「うご!」
「んあ!」
 はあはあはあはあはあ。弟は暴れるだけ暴れて、ベットから転げ落ちた。いい具合に頭から落ちて、可哀相な事になっていた。
「いってええ!」
「おーい大丈夫か?」
 ベッドから身を乗り出して弟を見る。ぼさぼさの頭を掻きながら、キョロキョロと辺りを見渡している弟の姿。シーツに包まる私の姿を見て、弟は。ねーちゃんなにしてんの? と、聞いてくる。
「お前なぁ、お姉さまを気持ちよく犯しといて、その言い草か!」
「えー。やってねーし……」
 本当に本能ってヤツは凄いな。弟に現状を分からせるべく、私はすかさず行動に移した。
「うり」
 がばっと包まっていたシーツを解いて、ハラりと腰の辺りに落とす。嗚呼、美しすぎるお姉さまの玉の様なお肌が。あらわになり、弟は唖然とした顔で固まる。
「困るなあ、いつも見てるくせにぃ。そ、れ、よ、り、も、だ! ココを見ろっ弟、ココだココ」
「っつ!」
 指を向けた先に、弟好みのぷにっとして内側の両フトモモが引っ付く窪みに、弟の分身が……在る! 私の大好きなものだ!
「コレを見て貴様。何もして居ませんと言えるのか? えっ、言えるのか?」
「姉貴ぃ……」
「うり、うり」
 私の真っ白な、且つ珠の様な肌に垂れ流れる弟のソレを見せ付ける。すると弟は、すんません! 姉貴! と、絨毯に頭を擦り付ける。
 いやいや、そこまでしなくとも……
「まっ、お姉さまが大好きだ。と、いう事が分かればいいんだ」
 そう私は弟に伝えて、ベットの頭の辺りに在ったティッシュペーパーを3枚取り出して、弟のソレを拭き取った。思いの他凹んで居たので申し訳ないような気になり、んーそうだなあ?
「弟、ちょっと来い」
 と、呼び寄せる。
「ああ」
 弟が立ち上がったので手で合図をし、自分の膝を叩き弟へ膝の上に座れと安に指示した。おいおいおいおい。流石と言うべきか? 弟は膝に座ったのは確かだったが、まさかコチラを向いて胸を合わせて座るとは思いも寄らなかった。
「姉貴。まだまだ甘いよ」
「お前なあ。……まあ、いいか」
 そう言って弟を抱きしめる。
「姉貴……あったけー」
 お互い裸のままで抱きしめ合った。
「暖かいな。お前ねーちゃんの事好きか?」
 そう聞くと、天井を見上げ、鼻面をポリポリと掻きながら弟はポツリと小言で答える。
「まあ、そういう事にしといて」
「そうか」
 少しだけ満足しながら、又――眠りについた。


 4.
「あらららら~姉貴ぃ、えらい事になってるねぇ」
「コレはまた派手にやってくれるな……」
 下方修正のち星の屑作戦実行当日。朝から弟と一発やらかして遅れて学校に来てみたら、弟の言った通りにエライ事になっていた。弟の運転で自転車二ケツで素直学園校門前に到着したら、玄関付近では渡辺系列の学生が――あれれれれ~。と暴れ回っていて、グラウンドではツンデレ系列の学生が――たまたま素直学園に来ただけなんだからね。と、『ちょっちょ、たまたま。ちょっちょたまたま』五月蝿く吠えていた。
「あいつ等にはボキャブラリーというモノが皆無なのだろうか……ソレを言っておけば落ちると思ってやがるからな」
 と、気持ちよく毒を吐いて校門前に仁王立つ。
 携帯電話には着信履歴は無く、私に連絡を取れないほど切羽《せっぱ》詰っている事は分かっている。過度に暴れまわってる両学生で、学園内はごった返しになっており弟に指示を出す。
「弟、よく聞け! コレからB校舎横駐輪場まで、駆け抜ける。死ぬ気で漕げ」
「おー姉貴。いい顔になったな」
「ふふふ、素直学園生徒会長フランソワ様が重役出勤だ。お出迎えは嫌に豪勢ではないか……くっくっく」
 弟の顔がキリリと締まり、行こうか、姉貴。と、サドルに跨り合図を出す。胸に弟の格好良さが響いたが、今はそんな事も言っては居られん。先ほどまでは弟にもたれ掛かって荷台に横座りして居たが、素直学園代表として威厳と厳格、存在感を誇示するべく荷台に立ち上がり、弟に肩を持って一気に駐輪場まで向かう。
「姉貴……良いぜ」
 ふっ。血は争えないか……いくら誤魔化してみた所で、いくらフランス人やグリーンの髪にしてみたところで、実の姉弟だな。ココゾという場面では男らしくなり、凛々しい面持ちで私をみつめる。――今は濡らしている場合ではないな。
「お前に任せるぞ、弟。発進!」
「おりゃああああああ」
 後輪から粉塵を撒き散らしながら、駐輪所に向かって爆走する。スカートは翻り、弟好みなピンクと白のギンガムチェックのショーツを覗かせながら自転車は、全力で直進! 前に立ちはだかるツンデレやら渡辺さんやらを薙《な》ぎ倒し、再度惚れ直した清清しく凛々しい弟が、漢臭い汗を垂れ流しながら爆走して駐輪場に辿り着いた。
「姉貴、着いたぜ」
「ああ。さあて……行きますか」
 B校舎から渡り廊下を使い、A校舎の生徒会室までの道中を、弟と共に進行する。
 駐輪場から少し歩き、三段の階段を一歩づつ感触を確かめながら、B校舎のドアに触れる。中の有り様を想像しつつ溜め息を一つ吐いて、心を落ち着かせた。
「なあ、弟。えらい事になっているかな?」
「想像の上を行くのは確かだろうさっ」
「ああ、そうだな」
 弟に背中を押され、そっとドアを開けた。
「ンン!」
「おーすげえ、すげえ。やってるねー姉貴」
 ツンデレ属性や渡辺属性にボキャブラリーの貧困さを責め立ててはみたが、この光景が視界に入ってしまうとチープな表現でしか捉える事しか出来なかった。――目前の廊下を見渡す限り魑魅魍魎《ちみもうりょう》として居て地獄絵図としか言えない状況下で在った。
 当学園の男子生徒はツンデレにからかわれ渡辺さんに萌え上がり、倒れこんだ男子生徒の絨毯が出来上がる。鼻血か何かで制服は血まみれになり、紺と朱で青紫色に絨毯は変色し、兎角《とかく》廃人同様の人間が積み上がって居た。
「想像を絶する出来上がり方だな、弟よ。……ふふふふふふふ」
「あ、姉貴?」
 ふわりと私の脊髄に独裁属性が舞い降りてくる。朝礼で星の屑あんパン作戦を宣言した、あの感覚。一度、素直空に素直エンパイア姉貴属性といわれた事が在ったが、安に独裁者と言ってしまっても過言では無かろう。くっくっく……
 弟に渾身の指示を出す。時間が全てだ。今正に属性が乗り移った最中、素直フランソワ独裁政権発足した瞬間に脳内に今後の展開が構築していく。
 即ち自己により積み上げられた理論の頂点は勝利の一文字だけだった。
「弟、よく聞け。即刻お前は屋上に進み、例の兵器を立ち上げろ」
「例の兵器って、あの……素直式科学兵器局地型対空迎撃用集中電磁砲の事か?」
 真剣な眼差しで、私の肩を掴む。
「そうだ。昨日の晩にツンデレがお前に近づいて情報を探りにきた。この現状を見たら分かるだろ?」
「ああ」
 弟は答える。
「立ち上げには三十分時間が掛かる。猶予は無い。今すぐ走れ!」
「あああ、ああ。分かったよ。姉貴ぃ」
 肩を掴むのは止めた弟は、走り出したと思ったらすぎさま舞い戻り、そうして。
「んんんんん」
「頑張れな、姉貴」
 私の身体を強く抱きしめ、歯が当たり鼻を潰す程口を付けて――愛を感じた。
「……弟の癖に、生意気な事を言いやがる」
 屋上へ向かって走り去る途中振り向いて手を振る弟を、呆然と眺めながら、ぽつりと呟いて居た。
 独裁者の中に女の部分を持ち合わせながら、私は生徒会室に向かう。屍のように転がる、男子生徒で出来上がった絨毯の上を、胸を張り歩き続け着実に進めていく。途中ツンデレに囲まれては、属性的に手詰まりがっ、底が浅いんだよ。と言っては蹴散らし、渡辺属性に絡まれては、一発屋。と吐き捨てて道を進める。
 そうしてA校舎とB校舎を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった。
「会長、お待ちしておりました」
 丁度A校舎の入り口付近に、素直空副会長の姿が在った。
「待たせたな、今の状況を説明しろ」
「はっ、只今の戦況は……」
 深々と頭を下げた空は眼鏡をいつもの様に光らせて、一通りに報告と状況の説明に入る。
 この渡り廊下も青紫の絨毯が出来上がり、ツンデレや渡辺が動き回っていた。


 ☆


 まあ、気持いいぐらいに転がって居る青紫の絨毯の上を歩く。歩くたびに「あん、あはん」と、クソ属性どもに骨抜きにされた男子生徒が、呻き声を上げる。そのような事は微塵も気にせずに、副会長と共に生徒会室へと向かっていた。
「穂種はどうしている?」
 そう聞くと、空は手持ちしていたバインダーを確認して答えた。
「只今彼氏と共に、ボーリングをしています。場所は屋上へと唯一開放しているドアの前です。……三階の通路なります」
 唯一開放しているドアは、A校舎の突き当たりのドアだ。戦術的に、突き当たりのため両方から挟まれる事は無く、各個撃破できるすんぽうか。穂種は頭はいいが、彼氏の功績だろう。穂種の彼氏をしているぐらいだ、基本的に頭の回転と理解力が無ければ、会話すら成り立たない。
「解った。なげやりは何をしている」
 急ぎ足で廊下を歩きながら、空に確認する。向かってくる属性に対して、蹴りを入れて対応する。実に面倒臭い。
「なげやりは、屋上で待機。外壁をよじ登ってくる学生に対して、投下予定だった『あんパン』を投げつけております」
「そうか」
 なげやりは、あまり心配はしていなかった。トドのようにすぐうな垂れるが、基本的には空と張る秀才だ。ただテスト中に面倒臭くなって寝てしまうだけなので……だから素直なげやりか。
「彼氏は?」
「彼氏……ですか? ハイ、なげやりの横で寝ています」
 彼氏はただのずぼらだな。
「空! 予定変更だ。これから屋上に向かうぞ。今、弟を屋上へ向かわせている。理事長との調整はどうか?」
 空も絡んでくるツンデレ、渡辺さんを完全に無視して、冷め切った視線を突き刺す。しらけて薄ら笑いを眼力で押し通し、属性どもを蹴散らす。まだ私の方が可愛げがあるな。
「調整は万全です。昨日の深夜素直春日様から『好きにしていいよ。』と、言質を取りました」
「ふふふ……お嬢様は相変わらずだな。好きにしていいよ、か……。本当に好きにして後処理を任せてもいいのだから、安心して好きに出来る。ありがたい事だ」
 空の肩を叩き、「ギャルゲーの主人公のような男は居るか? 代表選手みたいな奴だ」と聞く。うちの学園に一人ぐらい居るだろう。空は「居ます。腰の重い男ですが、どうとでもなりそうです。どう致しますか?」と答えた。
 屋上へ行く間に、色々と考えたが、やっと答えが見つかった。下方修正し、勝つべく案を考えなければならなかったが、春日お嬢様の言質で腹は決まった。くくく……
「空。お前は今から放送室へ向かえ、到着し次第携帯に連絡を入れろ。指示する」
「分かりました。代表選手はどうしますか?」
「私が直接話しをつける。何処にいる?」
 敏速に行動を起こす空は「屋上です」と言って、一階にある放送室へと駆けた。三階の廊下に居る空と私は、即様行動を起こす。廊下でボーリングの弾を本気に投げる穂種は、すこぶる楽しそうだった。ごろごろとボールを転がして、渡辺さんが弁当ごと吹っ飛んでいた。カコーンと気持ちよく衝撃音を響かせて、吹っ飛んでいく渡辺さんは圧巻だった。
「ストラーイック!」
 と手を広げ飛び跳ねて、大喜びではしゃいでいる穂種を、敵に回さなくて良かったと切に感じた。ボコボコと倒れ込む渡辺さんを見て、あの喜びようだった。まあ、可愛い妹だから敵に回ると、私は負けを宣言するだろうがね。穂種は「あーフランソワ!」と、嬉しそうにすすり寄ってきた。本当に子犬のようだ。かわいい。
「守備の方はどうだ」
 頭を撫でてやると、「えへへ、渡辺さんの弁当、全部食べちゃった。米うまかったぞ」そう穂種は言う。突き当りでは彼氏がいそいそと、ボールを用意していた。実にご苦労。
「屋上へ行くぞ。最後もストライクを見せてくれ」
「おう。分かったぞ!」
 そう言って、穂種は7号の黄色いボールを掴む。グイッと高らかに腕をあげ、真下に一気に落とし、ボールを滑らせた。廊下《レーン》は、学校なだけにベタレーン。綺麗に斜め三十度に回転し、先頭の渡辺さんヘッドピンに向かって鋭角に繰り込んでいく。「いけぇ! 俺のマグナムーッ」。
 穂種の叫び声と共に、学園指定のボールは渡辺さんのスネにめり込み、向かって左斜め後方へ吹き飛ぶ。ヘッドピン《わたなべさん》はジグザグに、どう属性にぶつかりながら、十人一個集団を見事粉砕してみせた。「うっし! オラ悟空。色々混ざってるぞ、ジッチャン」穂種は手の平を胸で組み、きゃっきゃ彼氏とじゃれ合う。
「流石だな穂種。えらいぞ」
 と、再度穂種の頭を撫でてやる。廊下で、うじゃうじゃと湧いていた渡辺さんは全滅。屋上入り口の鍵を閉め、一気に屋上へと駆け上がった。


 5.
 校内の、ハードに乱戦の模様を呈していた闘いを他所に、屋上は静かだった。素直なげやりは、空の話し通りにあんパンを、下からよじ登ってくる学生に目掛けて投げつけていた。陽は上々。射し込める陽の光を遮るように、手を額に当てた。
 私は例のギャルゲー的主人公とコンタクトを取るため、空に携帯電話を掛ける。呼び出し音。がちゃりと空は出る。空は息を切らせながら、「空です。会長こちらも放送室に着きました」と。私は横にいる穂種の頭を撫でながら、「ギャルゲーの主人公はどこにいる?」と聞いた。穂種は「フランソワ。この砲台撃っていいのか?」と、とても撃ちたそうだった。
「会長、ギャルゲー的主人公は素直なげやりの彼氏です」
「そうか! 了解した。空は今から私がグラウンドの中心に居ると、放送してくれ」
「そんなことして、会長大丈夫なんですか?」
「まあ、気にするな策はある」
「はい。分かりました」
 穂種に「あの砲台で遊んでおいで」と声を掛け、私はなげやりの傍らであんパンを投げる彼氏に近づく。屋上の外壁にへばりつき、豪快にあんぱんを投げる彼氏の肩をたたいた。「よっ、なげているなぁ」彼氏は寝そべっていた華奢な体をダルそうに持ち上げて私に視線を合わす。「どうも」と会釈した。昨日確かに会ったが、ギャルゲー的主人公には見えんが、コイツがモテるのか? まあ、見栄えは悪くは無いが、うちの弟の方が格好いいだろう。違った、濡れるだろう。別にいいか……
「単刀直入に言おう。餌になってくれ。渡辺さんとツンデレ。その馬鹿どもを釣りあげたい。デッカイ魚を釣るには君にしか出来ない。いいな」
「あっそうなの」
 そういうと、彼氏は彼女――なげやり――に聞いた。「ねえ、餌らしいんだけど、いいかな?」なげやりは「いいのではないか、死にゃあしないだろう」と返した。
 この二人はいいキャラクターをしている。まずもって話が早いからいい。どこぞのツンデレとは大違いだ。いちいち言い訳をいうからな。まどろっこしくて、見るに耐えない。「頼んだぞ」と再度彼氏の肩を叩く。「まっ死んだら骨拾ってね」と彼氏は言う。なげやりは「わかった」と言っていた。
 踵を返し、学園最終兵器トゥールハンマーに向かう。華やかに笑う弟が待っていた。
「弟待たせたな。どうだ? 準備は上々か」
「まあね、ぐおんぐおんいい音鳴らしてるぜ」
 キラリと白い歯を輝かせて、実に男前だ。今すぐにでも抱きしめて悶えさせてやりたかったが、そうもいかない。にしても、校庭で別れて以来久しぶりだったため、思い切り抱きしめてしまった。
「姉貴。気持ちは分かるけど、今はだめだよ。後で――ね」
 きゅぅぅん……子宮が疼く。ぴくぴくと膣痙攣が起こり、脳がとろけていく。ヤバイ、こいつぁ危険だ。今だ男前の弟になっている。馬鹿みたいな愚弟も可愛らしくていいのだが、今の弟は惚れる。壊れるぐらい抱きしめて欲しい。今すぐ唇を奪って欲しいと、切に願うと共に切なくなる。息があがる。この男に壊されたい。
「いまじゃ……駄目か? 弟」
「駄目。折角電源入れたんだ。早く姉貴の星の屑作戦――魅せてくれよ」
 ぽんぽんと、学園最終兵器トゥールハンマーの鉄板を叩く。未練がましかったが、抱きしめていた弟をそっと離し、操作盤に手をかけた。弟は「座標は?」と聞く。私は「ああ、グラウンド中心だ」と答えた。座標をセット。しかし、弟は「あれ」と驚いて、まっすぐに視線を私に合わせる。
「姉貴……座標軸が、あきらかに赤い文字でマイナスついてンだけど。どゆこと?」
「屋上からグラウンドの中心を狙うと、位置的に屋上の床をぶち抜かないと駄目なんだ」
「と、いうことは……」
「ああ、床をぶち抜いて、三階の教室の窓からグラウンドに発射だ」
 弟の表情はイキナリ引き締まる。いつもの馬鹿弟なら「姉貴やめろよ~」とか言って私を喜ばすが、男前の弟はこの現状に、大いに喜んでいるように思えた。張り詰める空間。しかしやわらかい。操作盤に手を当てていた私の手に、弟の手のひらが包み込んだ。きりりと目尻が締まって「やってやろうじゃんか、姉貴」と耳元で囁く。こいつ……私を軽く逝かせたいのか? 数え切れないほど逝かせたいのか? いや、まあ。いくらでもそそり立とうそれを、弄んでもいいのだが。心を掻き回されてぐじゃぐじゃになる。これ以上は弟と一緒にいると、終らない性交をしてしまう。
 私は「弟、外壁に備え付けている緊急用のすべり台を用意してくれ!」と伝えて、距離を取った。
「了解! デッカイ花火打ち上げてくれよ」
 そう言って走り、ここから脱出するために緊急用のすべり台を用意する。タイマーセットし、私は学園最終兵器トゥールハンマーのスイッチを押した。
「そろそろ空に放送が来るぞ。脱出! なげやり、穂種、主人公。行くぞ!」
 シッカりと指示して、皆すべり台の前に集まる。折り畳まれていたすべり台を、弟は外に向かって放り投げる。一気にすべり台へ空気が入り、ボコボコと音を立ててグラウンドに向かって伸びていく。「弟、先に行ってみんなを受け止めてくれ」
弟は、今までに見たことの無い最高の笑みをこぼして「俺に任せとけよ。姉貴は最後尾をよろしく」と……なれなれしく私の額を押しやった。コツンと。
 流石の私も胸が苦しくなって、その場で立ちすくむ。吐息のような甘い息を吐いて、「ああ」と答えていた。何度も――コツンが――胸の奥で鳴り響いていた。弟は「じゃっ、姉貴」と言って、しゅるしゅるとすべりおりた。「あっ」と吐息を漏らしたが誰も聞いていなかった。少しだけ安堵した。
 弟がグラウンドに足をつけるのを確認して、順々に仲間をすべりおろす。穂種には「暴れたら死ぬぞ、彼氏の背中に抱きついて降りろよ」と促した。
「分かった。おとこぉ。ボーリングの玉持ったか?」
「あほ、死ぬきか?」
「そうなのか? いつでもどこでも米俵を持つつもりで生きろ」
「じゃあ、穂種が米俵なげろよ」
 二人の会話は終わり、なかよさげにすべりおりた。やたらめったら男の背中に胸を押し付けているようにみえたが、真意は……たぶん。確信犯だろう。
「さあて、私も降りようか」
 そう言って、すべり台に手をかけた。瞬間――「ちょっと待ちなさいよ、フランソワ」――昨日聞いた甲高い声が聞こえた。すぐに想像はついた。私は頭をぽりぽりと掻いて振り向くと……そこには。そこには――ツンデレ学園生徒会長が――いた。


 ☆


「ええっと、どちらさん?」
「ちょっと、冗談はやめてよね。フランソワ」
 会いたくない馬鹿に会ってしまった。ツンデレ学園会長だった。まあ、いつものように眉間をしかめて、海苔のような眉をつり上げていた。あまり時間がないのだがなぁと面倒くさく思いながら、相手をする羽目になった。屋上にある学園最終兵器トゥールハンマーは、竜が威嚇するように電磁波が放電していた。
「いやあ、あまり関わりたくなかったものでね」
「コッチは用が大有りなのよ」
「そうですか……」
 時間が無かった。コイツの馬鹿をやっている間にも、空の放送が始まるからだ。とりあえず、意味の無さは分かってはいたが「明日に出来ないかな?」と聞いてみた。
「なにゆってんのよ、馬鹿じゃないの! よくもまあうちの生徒達をやっつけてくれたわねぇ」
 コイツのよくやるポーズ。腰に手をやって、旨そうにごくごくと牛乳を飲むように私に指差した。返答も面倒くさいが放っておくわけにもいかず、仕方が無しに言ってやる。
「会長の所が先に仕掛けたんだろう。当然正当防衛だろうが、第一うちの弟から情報を聞き出すなど、コスイの一言だな」
「あああ、アレは弟君が好きって言ったじゃない」
「そらぞらしい。建前は結構だと、昨晩通告したじゃないか。腹を割れっはらを」
「なんですって! アンタね。ウチが攻める前に、その兵器ぶっ放す気マンマンだったじゃないの、むちゃくちゃ言ってくれるわね」
「むぅ……」
 そこまで知られていたのか……愚弟――勘弁して欲しいが――そこが可愛い。簡単に騙される所が、もはや「お前なぁ、簡単に情報教えるな。バツとして、私を抱け。漢の限界をみせろ」。そう言ってくれと言っているようなモノじゃないか。母性本能がくすぐられる。ふふぅ。
「ちょっとぉフランソワ。よだれ、涎出てるよ。汚い」
 しまった。出ていたのか。実のところ、涎では済んでいないが。さあて、どうする。すると、何故か会長は拳を握り締め、構えを取った。身体を流して横を向き、右手は前に突き出し左手は腰元へ。両足を広げ、膝を少し屈めた。面をこちらに向けて臨戦体勢だ。
 強い風が吹いた。ごごごぉぉ――会長の茶髪は風に舞い、顔全体に纏わりつく。が、なおす素振りはみせなかった。スカートは翻り、すらっとした細い太ももが覗く。……どういうつもりだ。
「フランソワ。一回しか言わないから、よく聞いてね」
 会長の肩が上下に大きく動く。私を直視したまま、微動だにしない。こうなってしまっては、意見交換など通用しないだろう。そう思い、私は構えた。
「なんだ? 会長」
 だらりを全身の力を抜く。腰のみ力を入れて、どのような状況になっても対応出来るようにしておく。一撃必殺! これが私の闘い方だ。必要以上身体に無駄なエネルギーを込めず、素早く動き、一撃で仕留める。素クールカッターの極意。背を丸め両手をぶらぶらと下げて、前かがみになった髪は、バランと垂れ下がる。
「前髪の隙間から覗く真っ赤の眼は、獣そのものね。まるで虎のようよ」
「くっくっく……条件は何だ。聞いてやるから、答えるんだな」
 ジリジリと間合いが詰まっていく。お互いにすり足で、確実にその距離を縮める。射程距離はお互い一緒だ。密着により打撃。すこし射程距離がある蹴りは使わない。小中からの喧嘩で、お互い不得手なのを知っている。懐にどう入るかだった。それが全てだ。
「私の魅力で弟君を落とすわ。手前の“萌”戦闘力は、私たちツンデレの方が上。嫌ならこの兵器を止めなさい。そうで、なければ――」
 嬉しそうに会長はニヤリと含み笑い。眼がギラついていた。会長の言いたい事など、既に分かっていた。初めは学園やしがらみ、その他あったのだろう。だが今は、この闘いしか見えていないだろう。
 実際に会長ともなるツンデレが、弟を毒牙にかけたら一瞬の惨劇だ。愚弟など、大富豪で3のカードを出すほど簡単に虜になるだろう。初回ダメージが半端なく強い。長期政権を考える素直クールにとって、短期勝負をツンデレに仕掛けられたら、まず持ってひとたまりもない。属性の特性を存分に発揮される宿敵。
「お前に勝てばいいんだな、会長」
「――まあね、そう言うことね」
 会長の最後の一言をかわきりに、お互いに無言になる。強く風が吹く中で、相手の鼓動だけが聞こえ合う。――はぁ――はぁ――と。汗が額に滲み出る。鼓動が高鳴る。もう会長と私の距離は半分まで来ていた。 いつ仕掛ける? 距離をはかる。見合う。私の間合いはギリギリだった。
 小中と、幾度もなく渡り合ってきた仲だった。戦法も手の内も分かっていた。思考も全て、互いに曝け合っていた。身体が勝手に反応する。会長の戦法は――受け。徐々に距離を狭め懐に入り一撃。攻めて来られれば、ジャブ程度なら頭をぶつけてガード。一気に懐まで食い込んで、一撃を喰らわす。ストレートクラスなら、避けて一撃。避けれなければ負けていた。攻めて来なければ、距離を縮めるだけだった。
 私はその戦法に打ち勝つべく、速さと一点に力を集中させる術を覚えた。分散された力を手刀に集中させた。そのために身体が脱力するが、力がしっかりと手刀に乗るように腰に力を残していた。そのうえ腰で脚を動かせるように修行して、速さを身につけた。これで会長と私の勝率を五分になった。後は背負うモノ――想いの重さだけだった――
 コレが会長との闘いが、最後になるか分からないが、背負うモノ。――想いの重さ――には自信がある。会長はたかだか、学園の存亡。責任感のみだ。私は違う――溺愛する弟が絡んでいた。弟を想う気持ちは誰にも負けない。『裏をかいてやる』。
 瞬時風がやんだ。刹那――空の放送が学園中に響き渡った。勝負は一瞬だった。
 “全校生徒ならびに他校生一同。等学園生徒会長は、グラウンド中心部に陣取っています。御用の方は取り急ぎお進み下さい”
 私は放送の準備はしていたが、会長は全くしていなかった。すなわち意識、集中力が秒単位で途切れた!
「くっ!」
 凄まじい前から受けるGを感じながら、会長に向かって一直線に駆ける。前のめりのまま、風を切って突き進む。会長の意識が回復し事に備える前。コンマ数秒のうちに、会長にとっては思いもよらない、私にとっては確信犯的にミドルキック。会長の腰に足の甲で蹴りを見舞う。
「はっ!」
 コンマ遅れて、いつもなら出すはずの無い下から打ち上げるような拳を繰り出す。「おそいっっ」――空を切った拳を確認して、私は叫んだ! 直後。フック気味に腹部へ渾身の手刀を放つ。ズブズブとめり込んだ。会長は「げぼっ」と嘔吐し蹲《うずくま》る。ぬるり……手刀を抜き取った。
 一撃必殺。弟の想う分だけ会長を上回った。そうして、素直式科学兵器局地型対空迎撃用集中電磁砲は無言のまま発射された。数秒遅れて轟の如く衝撃音を響かせて、地響きが止まらなかった。


 ☆


 しまった事の連続だった。私は屋上に蹲り、頭を抱え込んでいた。
「どうしろと言うのだ」
 ぶつぶつと言葉を漏らし続けた。捻りきれない蛇口から、ぽとぽと雫を垂らすように、私は呟き続けた。目の前に気絶した会長の姿。その先に目をやると、放射の影響で、コンクリートを貫通し自らの体を沈下させている学園最終兵器トゥールハンマー。
 さすがの私も絶体絶命と感じ取れた。
「どうしろと……」
 このままだと学園最終兵器トゥールハンマーが発射されて屋上は崩壊。会長ともども巻き込まれるのは明確だった。しかし、気絶している会長をおぶりすべり台は降りられない。どのような計算式を使用して考えてみても、体勢を崩して会長と共にグラウンドに落下するだけだった。
「フランソワ……」
 会長の声だった。息絶えそう程弱々しい声。
「フランソワ。私を置いて、逃げなさい……私、負けたんだから……いいわよ」
 会長らしい苦い思いのする、綺麗な笑顔だった。私には会長のように華やかな笑顔は作れない。悔しいが、惚れてしまいそうになる。会長は手を差し伸べ、「私のことはいいから、さっ」とつづけた。
 私は「ああ、そうか……という訳には、いかんだろう」と、笑顔を作ってみせた。私の笑顔は、あいかわらずヘタだった。「無理しちゃって……」そう言って会長は、また気絶した。
 会長に「おやすみ」と答えてあぐらをかく、会長の腹にめり込むほどの手刀を放った為、当分動けないのは分かっていた。渾身の一撃をくわえたのだ――私の手ごたえが、そうハッキリ私自身に伝えていた。
 ――手詰まり――と、反響し合うように心に響き渡った。空を眺めた。私の心とは裏腹に、雲一つ無い晴天模様だった。
 まるで投げやりのように、あぐらをかいて座り込む私は、絶望の縁へと追いやられる。
「弟、皆どうしているのだろうか……トゥールハンマーを受けて吹き飛んだのだろうか……」
 まさかの会長の出現で、予定が大幅に狂ってしまった。ここも、もうすぐ崩れる――後は死を迎えるだけになってしまった。
 予定では、やげやりの彼氏をグラウンドに立たせ、エロゲーフラグ的理由でツンデレや渡辺さんを集結させて、学園最終兵器トゥールハンマーを一撃粉砕。上空に吹き飛んだ敵学園生徒により、「コレが星の屑だ! 人が降ってくるぞ、弟」と、素敵な段取りが組めたはずなのだが。
 会長と涙の会見をしていたら見る暇もなく、グラウンドには既に生徒たちが横たわっていた。もう吹き飛んだ後だった、皆巻き込まれているのだろうか?
 崩れ去る屋上は、なだらかな微風が流れていた。――地響きが、轟の如く木霊した。屋上が崩れ出した!
「うりゃ」
 私はすぐさま会長を抱える、コンクリートに亀裂が走る、基盤チップのように学園最終兵器トゥールハンマーを中心に、音を立てて崩れ始める。そこへ……
「姉貴ぃ!」
 弟の声がした。
「お前、何やって……」
 半壊した屋上の階段室から、弟が顔を出した。「姉貴ぃ、今すぐすべり台に入れ! そのままグラウンドに逃げるぞ」弟は眼が据わり、真剣な面持ちたっだ。
「そんな事言っても、死ぬぞ」
「後で説明するから、今すぐ行けっていってんだろ!」
 弟の罵声が飛ぶ、そのまま私の所へ弟は駆け出し、会長を背負った。「時間が無いんだよ姉貴。俺に任せとけ、伊達にあんたの弟やってんじゃないんだから、信頼しろって!」
「お前……」
 決心がつき、弟の指示に従う事にした。もう四の五の言っている場合ではなかった。弟の芯の強さに、胸が張り裂けそうに熱い。焦がれて燃え尽きそうだ。
「弟よ、こんばんはお前の大好きなプレイをしてやる、だから死ぬなよ」出来うる最高の笑顔を魅せた。
「おっ姉貴いいねえ……じゃあ、目隠しアンド手首縛りプレイな。行けっ姉貴」
 ドンと弟に背中を蹴られ、私は屋上の縁と思しきすべり台前へと走り出す、その場に着いて振り向いた。弟はヨレヨレと会長を背負いながら、こちらに向かって進んでいた。苦笑する弟は脚を蹴り上げて、「行け」とジェスチャーで表していた。「弟愛しているぞ!」無我夢中で叫んでいた。弟は「分かってるよ! 姉貴」と脚を上げ、すべり台へ乗り込めと催促をする。私は覚悟を決め、乗り込んだ。
 しかし、弟への視線の先に学園最終兵器トゥールハンマーがうねりをあげて崩れ落ち始めていた。電子を放電しながらパリパリと花火のように放射し、床下へめり込む。
 ――学園最終兵器トゥールハンマーの中心部に光が集中してた、誤作動を起こしていた。再度放射寸前だ。
「弟、会長ぉぉぉぉぉおおおお」
 どっと涙が溢れ出す、黄ばんだオレンジのすべり台の中を滑る私の眼から、涙が飛ぶ。涙は重力に負けて宙に浮かび、後から追いかけてくる。勢いよく滑り降りた私は、何とか無事にグラウンドに辿り着いた。
「フランソワぁ!」と、仲間が駆け出して私を迎えてくれた。だが、弟と会長の事が心配で居ても立ってもいられなかった。
 見上げる空、屋上からは瓦礫が降り注ぐ、メキメキと崩れ落ちながら、粉塵を撒き散らしていた。もう、言葉すら出なかった……弟、会長。
 私は呆然と立ち尽くす。うな垂れて辺りが眼に入った……何故かマットがあった。大きい、縦二十メートル横二十メートル高さ一メートル程の巨大なマット。側面には、素直学園科学研究所用具と記載されていた。すぐさま気が付いた……弟、お前、飛ぶのか、と。
「会長!」と、副会長空の声だ。「ご苦労様でした、まさかこんな結果になるとは思わなかったですね」
「空、準備が良すぎるな、どういう事だ。経緯を報告しろ」
「弟様が、会長の眩いまでのオーラが見えたと、そう仰られまして……これは何か問題が起きた、姉が責任を取るから急いで屋上に行ってくる。今にもトゥールハンマーが発射するから、緊急用にとりあえずグラウンドにマットを用意してくれと。そう言われまして、全員で体育館からマットを運び出しました」
「うちの理事長は、何と言っている」
 ファイルから別紙を取り出して、空は眼鏡を上げる。
「フランソワに一任している、報告楽しみにしている。だそうです」
 理事長は、面白ければ何でも良いお方だ。このまま終るわけには行かないか……現状で言えば弟と会長が屋上から飛び、マットに着地して成り行き的に星の屑作戦は終了となる訳だが、理事長はそれで満足して頂けるのだろうか。
 歯痒いな、弟と会長の事を心配したいが、作戦の事も心配しなければならないとは、因果なもんだ。
 弟を待つ、暫しの沈黙が流れた。風は止み、時間が停止したかのように辺りは静まり返る。ゆっくりと弟が会長を背負い、やはり屋上の縁と思しき場所に立った。流石に表情までは分からないが、迷子になった子供のように心細い様子だった。
 今日は予想外の展開がひたすらに続いたが、会長が気絶していて良かった。意識があるようなら「ちょっとちょっと」と暴れまわったに違いない、人命に関わる場合世の中うまく出来ているものだ。――そして携帯が鳴った。
「姉貴、流石にこの高さから飛び降りるのは怖いな。姉貴が欲しいよ……」電波を通じて、弟の弱々しい声音が聞こえた。私は即座に答える。
「マットに来い、思い切り抱きしめてやる。大丈夫だ、私が確りと受け止めてやるから」
「ああ、分かったよ姉貴、楽しみにしてる。一つだけいいか? 姉貴」
「どうした、弟」
 沈黙が流れ、風のノイズだけが電気信号に変わり、携帯越しに私へ伝える、緊張が走る。弟のうねる声が耳を打つ。そうして弟が言葉を発した。
「ねーちゃん……愛してる」だった。
「……知っている、今更だよ弟」
「冷たいなぁ」
「すまん、照れ隠しだ。そう言われると、私もビックリするよ、ありがとう」
 鼻頭をぽりぽり掻く弟の癖を確認して、ダイブする準備に入った。
 私はマットの中心部へと駆ける。弟越しに覗く学園最終兵器トゥールハンマーは、太陽が巻き上げる火柱のような放電を撒き散らしていた。携帯は切れる寸前、女子の呆れた声が聞こえた、会長の声だった。
「何やってんのよフランソワ、こんな時にいちゃついちゃってさ。アンタしっかり受け止めないよ、全部アンタに掛かってんだからね」
 会長は呆れ果てた様子だった。面白くないと言った所だろうか、会長は話を進める。
「命預けるんだからね。しょうがないわねぇ、ホント……」
「心配するな、弟が居ても居なくても、ちゃんと受け止めるから安心しろ。会長が居なくなるのは、それはそれで寂しいものだ」
「そんな事言われても嬉しくないっての、ばぁか……」
 電話越しに聞こえてくる会長の声は、一緒に遊んでいた頃を思い出す。お互い成長すると、あまり会話をしなくしなって久しいが、園児の頃は公園ではしゃいでいた――あの頃の気持ちに引き戻されるようだった。
「時間が無い、会長……弟頑張れよ」
 そうして携帯の通話を切った。少しばかり手が震え、片方で腕を掴み、振動を押さえ込む。私はマットの中心部にて二人を迎える。こんなのも怖いと感じた事は今までに一度も無かった。
 弟は会長をおぶり、腰を落とす……そうして――弟は……飛んだ。
「おらぁぁぁあああ、やってやんよぉ!」
 弟と会長が飛んだ瞬間――爆破寸前だった学園最終兵器トゥールハンマーは咆哮をあげ、放電したパルスを吸収し、あらぬ方向へ放射していた。
「弟! 来い」
 私は身構えた。飛び込んでくる弟と会長のために、そして私のために。足場の悪いマットの上でどっしり腰を落とし、手を広げ待っていた。
「おおおおおおお」弟の叫び声、会長は口を一門に結び硬く閉じていた。弟たちは重力に従い、加速しながら私に向かって落ちてくる。時間にして数秒だろうか……しっかりと会長を背負い、そのままの形で降っていた。そう、私を信じきって体を預けきっていた。
「大丈夫だ、絶対に受け止めてやる」私はそう心にキメ腰を据える。
 ――ドンという衝撃。正面から弟を受け止めてマットに沈む、一度大きく跳ねて、又私たちはマットに深く沈み込んだ。そのままゆっくりとバウンドして、孤を描くようにマットの外へ放り出された。
「イテテテ……」
「痛ぇ……姉貴、大丈夫か?」
 弟の声、四つん這いになって腰を叩いていた私に、弟が話しかける。少し痛いが、弟が声を掛けれるだけの元気があって良かった。私は「問題ない」と返事を返し、座り込む。「はぁ」と息を吐いて、しばし放心状態になっていた。とりあえず今、実に思うところは死ななくて本当に良かったという事だった。
「ああ、会長……」
 のそのそと這って会長の傍によると、まるで漫画のように眼がペケポンの形になっていた。頬をそっと撫る。
「ゆっくりとおやすみ」と、会長の額を遮る前髪をすっと掻き分けて、私は立ち上がった。
 すると――――――何かが降ってきた。何だ? そう思い空を見上げる。
「姉貴ぃ、何か降ってる……」
 同じくして弟が空を見上げながら、呟いた。それら降ってくるモノを手に掴むと、コンクリートに破片だった。しかし、当学園のモノではなかった。確かに屋上は学園最終兵器トゥールハンマーと共に崩れ落ちてはいたが、グラウンドの中央まで瓦礫が降ってくるほど派手に爆破した訳ではない。振り返り学園を眺めると、やはり静かに崩れていた。
「姉貴! 見てみろよ、スゲーことになってんぞ」
「ああ?」
 背中を弟に叩かれ、指を向ける方に眼をやると、まさかの出来事になっていた。近くのツンデレ学園の校舎が、気持ちよく崩壊……していた。どうみてもツンデレ学園の校舎は無く、綺麗サッパリ校舎は吹き飛んでいた。
 上空より降り注ぐ校舎の残骸、きらきらと光が反射して輝いている。風に遊ばれて、雪のように白いコンクリートは星たちが数をなして注ぎ込んでいるようだった。
 胸ポケットにしまっていた携帯電話が、振動と共に着信音を響かせて私を呼んでいた。手に取り表面の液晶を確認すると“理事長春日お嬢様”となっていた。
「はい、フランソワです」
「春日だ。星の屑作戦確認した。流石は生徒会長、私が見越しただけの事はある。後の処理は任せておけ、とりあえず……そうだな、黒服をそちらに向かわせる」
「ありがとうございます」
「おつかれさま。穂種に頑張ったなと伝えてくれ、お前から言ってやった方が良いだろう。空となげやりには、こちらから連絡を入れておく。明日学園でな」
「お疲れ様でした」
「おつかれ」
 電話は切れ、ツンデレ学園を偶然にも爆破したことによって星の屑作戦は完了した。ここまでするつもりは毛頭なかったが、コレで私も、爆破好きマッドサイエンティスト春日お嬢様の仲間入りという事になってしまったか。まあいいか……
 気持ちは落ち着き、緊張の連続に少し疲れ、マッドに横たわった。空を眺めると、木の葉のようにゆらゆらと瓦礫が舞い降りていた。
「つーかーれーたー」と一言吐いて、手足をだらりと広げた。しかし休む暇もなく空から指示を仰がれて、身体を起す事になった。
「会長、黒服が到着しました。どう致しましょうか?」
「春日お嬢様から連絡があって、この後は黒服の指示に従うということだ。……そうだ、穂種はどうしている」
「穂種は彼氏と一緒に転がっている渡辺さんの弁当を集めて回っています」
 空へ手をさしサインをして「黒服との調整よろしくな」と、その場を後にした。ほどほどに進むと、足元に気絶する渡辺さんが居る。肩に掛かっていたトートバッグから弁当を取り出して、穂種に近づく。
「お疲れ、ほれ弁当」放り投げた。
「あーフランソワ! ありがとう」
「春日お嬢様が、お疲れ様ってさ」
「春日がぁ、そうか、今度塩化ビニールをあげよう」
 ふっくらとした頬が高揚して、穂種は笑顔になった。むしゃむしゃと、彼氏と一緒に弁当を食べていた。
 黒服に「やるだけやった。後の処理を頼む」と言って、心身ともに疲れた私は弟の手を取り、自転車置き場へと向かう。空も彼氏に携帯を掛けていた。なげやりは――いつのまにやら彼氏と共に、マットの上で寝転んでいた。皆に挨拶をすると、全員が「会長お疲れ様でした!」と手を振っていた。振り返る事なく私は背中越しに手を振った。
 兵《つわもの》どもが夢のあと、不毛ではなかったが闘いは終焉を迎え、弟と共に自宅に到着した。何も言葉を発せず、ただ深い眠りに着いた。弟と添い寝をし、何もせず、漢の暖かい肌を感じていた。
 ――了

  1. 2006/09/04(月) 00:02:29|
  2. 中編作品|
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苦い後味

1.
「ねえ? 何時になったら、鞄……買ってくれるの?」
 かったるい仕事を終えて、家でゆっくりしようと思っていたが、嫌な女に会った。まあ、待ち伏せされた。――訳では無いが。
 当たり前のように会社の前で、『今日も悪いわね』と。そう言われ、地下の駐車場までついて来た。
「聞いてるの?」
「ああ、聞いてるよ」
 適当に相槌を打つ俺は、とっととコイツを家に送ろうと、若い頃に無理をして買った、ステージアを走らせる。助手席で、物の価値も分からない物欲主義者が、グダグダと囀る。
「今度の仕事が上手くいったら、臨時で寸志が出るから、それで買ってやるよ」
 出るはずなの無い寸志を餌に、この場を誤魔化す。『ホント? 嬉しいわぁ』と、眼が全く笑っていない、このツマラナイ女は――藤村恵子(ふじむらけいこ)
 部所は違うが俺の同僚で、仕事は出来るが、基本的に駄目な女だ。髪はセミロング、薄く色を抜いた髪質。襟を立て、ブラウスのボタンを二つ開けていて、チラチラとブラを覗かせる。一瞬誘っているのか? 思った事もあったが、実際誘っているのだろう。
 藤村は美人で頭は切れるが、男に依存していて、自立出来ていない。その癖――男を卑下し物乞いをする。ただ……依存しきっているだけあって、SEXだけは巧い。それだけの女だ。
 まあ、それだけでも男にとっては、十分価値は在るだろう。月に四、五万の餌を与えるだけで済むのだから、安いものだ。だから半年前から、付き合っているのだが、自分の価値も分からん女に、物の価値を分かれと言うのも酷な話だ。そっとして置いてやろう。
 車を走らせる事二十分。この女には勿体無い程の高層マンション、地下駐車場。奥のエレベーター前に車を着けた。
「着いたぞ。又明日」
 俺は淡々と、そう言って圧力を掛け、藤村を車外に追いやる。
「え? 今日は、寄っていかないの?」
 と、藤村は窓越しから、物欲しそうに吼えた。週に三日も四日もたかられたら――鬱陶しくて、たまったもんじゃあないな……
 とりあえず。
「今日は疲れているんだ。一応用事も在るし、帰るわ」
 そういってRにシフトを入れ、アクセルを踏み駐車場を出る。転回が面倒なので、バックのまま車道に車を出し、車を走らせた。
 この女も潮時か? 流石に面倒くさくなってきた。どういう腹か知らんが、こう頻繁に誘われると、うざったくて仕方が無い。藤村の何が? 何をそうさせるか分からんが、男を卑下している癖に、寂しさを男でしか埋められない。その矛盾している所が、可哀相な女だ。
 なかなか別れられない理由が、藤村に対する同情に、あるのかもしれない。
 ダッシュボードの中から、食いさしのアンパンを取り出し、小腹を満たす。手に付いたパン屑をスラックスで払い、カーオーディオのスイッチを入れる。三十前のガキには不相応な、マッキントッシュのオーディオシステムから、B’zサウンドが鳴り響く。
「ふう、今日も何かと疲れたな。七時か」
 そう独り言を呟いて、車内で流れるALONEを口ずさみ、家に向かった。



 2.
 低く鈍いエンジン音が、静かな街並みに木霊する。少し幅の狭い路地を通り、駐車場が見えた。
 家から歩いて五分の立体駐車場一階に、愛車を一旦停止。駐車スペースに向かって、大きくハンドルを切り、そのまま頭から、ステージアを差し込んだ。車止めとフロントバンパーを少し擦らせて、駐車完了。
 ガチャリと、ドアを開け表に出ると、いつものように斜めに愛車が駐車されているが、そこはご愛嬌。まあ、スペース内に収まっているのだから、文句はあっても言えんだろう。と、防犯アラームを作動させ、効果の無さそうな電子音を響かせて、愛車ステージアを後にした。
 市内から少し離れたこの辺りは、市内に比べると、多少寂れてはいるが、まま――住むには不自由なく、ごちゃごちゃと……何かと小ウルサイ市内で住むよりは、俺には合っている。薄暗い街灯が立ち並ぶ表通りを、ぼつぼつと歩く。
 そうすると左手に、週に五回は行く、地域密着型のコンビニのようなスーパーのような。グロー球が切れかけて、カチカチと看板の電灯が点滅する、コンビニが見えた。
「そういえば、ビール。切れてたよな?」
 くたびれたスラックスの後ろポケットに、手を突っ込み、小銭を取り出し確認する。しわくちゃな札が二、三枚折り畳まれ出てきて、じゃり銭が数枚。思ったより入っていなかった。そういえば、何かと使ったような気もするので、気にせずに、上着の内ポケットから、フェイクレザーの長財布を取り出して中を見た。
「微妙」
 残金十六万程。そういえば……この前の給料を足して、幾らになっていたんだ? 毎月給料を、そのまま財布に突っ込む為に、よくは分からないが、余りピンと来ない数字だ。少ないような気もした。
「まあいいか。死にはしないだろう」
 そう言って、コンビニのようなスーパーのような店に入った。


 ☆


 『いらっしゃいませ』その声の主に軽く手を挙げ、一直線に酒コーナーに向かった。中は広々としていて、スーパーのような店だけあって、食品関係は充実している。コンビニ程、店内は明るくはないが、この微妙なバランスは、結構気に入っている。
 まあ、外で食うか、カップ麺しか食わない俺には、関係ない話ではあるが。
 目的の酒コーナー手前――野菜コーナーに、見覚えのある女子高生が、鼻歌交じりで、苦瓜を手持ちの籠に放り込んでいた。又か……
 俺は仕方がなく、女子高生に声を掛ける。面倒だな。
「加奈子。お前、又喧嘩したのか?」
「あっ、兄貴……」
 すうっと、苦瓜を差し出して『苦瓜食うか?』と、俺が嫌いなのを知ってる癖に。半笑いで聞く女子高生は――木ノ下加奈子(きのしたかなこ)
 俺の義妹。俺が二十の時に、母が再婚した父方の連れ娘だ。ここから車で二十分離れた実家に住んでいて、制服のまま来ていた。髪は適当に後ろでくくり、眼鏡を掛けて、優等生といった感じになる。
 初めて会った時は小学生だったが、加奈子が高校に入った頃から、父親とよく揉めて、家出をするようになっていた。始めは友人宅にお邪魔になっていたそうだが、こうちょくちょく来られても困ると、友人にそう言われ、俺の家に来るようになっていた。
 もう一年にも、なるのだろうか?
「要らん」
 と言っても、加奈子は元の場所に苦瓜を戻す事はなく、籠に入れる。『どうせ、ビールでも買いに来たんだろ?』と、加奈子は分かりきった顔をした。そうして俺達は、酒コーナーに向かう。
 加奈子は冷蔵庫から、冷え切ったビールを取り出そうとしたが、俺は制止して『ケースで買うから、要らんぞ』と、言うが……加奈子は、『とりあえず、冷えたビールが要るだろう』そう俺に返す。
「いや、冷えてから飲むわ」
 そう言うと『兄貴は母にそっくりだな』と、加奈子は言う。俺はそうかな? と、思いながら、ビール一ケースを肩に担いで、先に店を出た。そのあと加奈子が支払いを済ませ、古ぼけた良い雰囲気の店を出る。


 ☆


 加奈子と二人――並びながら家に向かう。薄暗い表通りを歩く中、『今はテスト休みだ。兄貴、心配するな』と加奈子が言う。親父と喧嘩して、家出をして来た訳ではない事が分かり、ホッとした。
 先ほど加奈子が、俺は母親に似てると言うが、そう言われれば、確かに……余り物事に干渉しない。気にしないと、いうと所は似ているのかもしれない。
 半年前に加奈子が家出をして、家に来た時には、結局一ヶ月間。別に実家に帰らせる訳でもなく、ただゴロゴロさせていたからな。
 加奈子は、母親似の俺と同じように、父親に似ている所があり、細かい神経でシッカリした性格だ。高校にもなると、思春期と共に自我が芽生え、口ウルサイ父親に反発して、家を出るのも……まあ、無理もないか。
 お気楽の母子に比べ、神経質の父子になると、反りも合わなくなる。俺は加奈子が家に来る事は、いっこうに構わないが、電話越しに親父の小言を聞くのが、億劫で仕方がなかった。
 とはいえ加奈子は、昔から母とは仲が良く、本当の血を分けた親子のように――傍から見ても、友達ように接している二人だった為、心配はしていなかった。
「私は後、終了式を済ますだけだが、兄貴の所は研修やらどうたらで、新入社員が来ているのではないのか?」
「そういやあ、そんな事。課長が言ってたな? 俺は商品開発プロジェクトで忙しいから……聞いてなかった」
 そう言うと、加奈子はキョトンとした顔になった直後。『そんなの……兄貴には関係ないだろ?』と言って、小馬鹿にしたように笑い出した。
 歩く事二分。マンションとは言いがたい、五階建ての築一三年。アパートと言ったほうが間違いではないかもしれない、茶色く呆けた――赤いレンガのマンションに着いた。



 3.
「ただいま」
 玄関のドアを開け、中に入る。
「お帰り」
 後方から、加奈子の声が聞こえた。
 住み慣れて、居心地の良い1Kの部屋は、少々狭いが俺にはピッタリだ。暗闇の中、俺は足の裏にフローリングの冷たさを感じつつ、流し台の隣に在る冷蔵庫前に、ビール一ケースを置く。そうして、テレビに近づきスイッチを入れる。映し出された映像に砂嵐の映像が流れ、画面左上に1と表示されている。そのまま俺は座り込み、足元に在るFC(ファミコン)のスイッチをONに入れる。カチッ――
 画面に、『ベストプレープロ野球’90』が表示される。すぐさま俺は、ペナントレースを始めた。試合が始まると、すぐテレビのをスイッチを切って、放置だ。後はオートでやってくれる。
 ゴロンと安物のパイプベッドに寝そべり、枕の辺りに在る百円ライターを取ろうと、手を伸ばした。
「あれ?」
 確か? 朝、目覚めの一服をして、枕の辺りに放り投げたはずじゃ……
 しかし、無いモノは仕方がない。胸ポケットから、くしゃくしゃのCOOLボックスを取り出し、煙草を咥える。上着の両ポケットに手を突っ込み、ライターが無い事を確認して、更にスラックスの全てのポケットに手を突っ込む。が、無い。
「車か……」
 余り確証はないが、そう決め付けて、昔リサイクルショップで買ってきた、テーブルに目をやる。暗闇で良く見えない為、ベッドから降りて、手探りでテーブルの上を漁る。百円ライターを探している間に、不意に部屋の蛍光灯が点いた。
「兄貴。ホレッ――ライターだ」
 急に百円ライターが、俺の目前を通り過ぎる。玄関付近の柱に備え付けられていた、蛍光灯のスイッチに手を添えた、加奈子の姿が在った。
「兄貴。下手だな?」
 無表情で、『早くビール、冷蔵庫に入れてよ』と俺に催促して、加奈子は台所と呼ぶ、狭い流し台の前に立った。
 テレビ付近に転がった、先程の百円ライターを四つん這いで取り上げて、仰向けに寝転がる。そのまま咥えていた煙草に火を付けた。辺りを見渡してみると、綺麗に片付いてあり、朝までの、俺の部屋とは大違いだった。
「なに? 加奈子。先にあがってたのか?」
 加奈子に聞いてみると、『これから一週間ぐらい泊まるから、片付けたよ』先程購入した、苦瓜を炒めながら、そう答えた。付け加えて『兄貴はいいとしても、私が嫌だからね』と、加奈子は先に手を打った。
 少々汚いぐらいが落ち着くのだが、まあいいか。俺は面倒だったが、ビール全てを冷蔵庫に入れる為に立ち上がり、流し台に向かった。
「さっきの話しの続きだけど……商品開発って、何を開発しているんだ? 兄貴」
「ああ?」
 缶ビールを冷蔵庫に放り込んでいたら、背中越しに加奈子の声がした。振り向くと、木綿豆腐を六等分に切りながら、ボウルに豆腐を流している――エプロン姿の加奈子。
「藤木さんや上村さん。後――藤村さん……一緒のプロジェクトなのか?」
「お前、よく俺の同期の名前なんか、覚えてるな?」
 フライパンに何かのタレを入れ、具材をひっくり返し馴染ませる。『まあね』加奈子はそう言って、調理を続けた。
「藤木と上村は一緒にやってるが、藤村は違うな。他の部所だ」
 確かに、俺の同期で一番仲が良い三人。何故か仕事だけは上手く行って、肩書きだけはそこそこの、主任とかにはなっていた。そういっても余り実感はなく、作業的に仕事をこなして来ただけで、面倒くさいだけだ。何かの拍子で課長になるかもしれないが、しかし、この適当な性格も知られている事だし大丈夫だろう。
「よか……った……」
 水が切りきれていない木綿豆腐が、フライパンに入り、油が飛び跳ね、加奈子の声を聞き取る事が出来なかった。
「何か言ったか? 加奈子」
「いいや。なにも」
 俺は『そうか』と言って、ビールを仕舞い冷蔵庫のドアを閉め、又ベットに横たわる。使い古したパイプベットが軋み、天井を見上げてぼうっとする。時折テレビのスイッチを入れては、ペナントレースの様子を確認し、テレビのスイッチを切る。
 流し台から『兄貴ぃ、ご飯出来たぞ』の、加奈子の言葉を聞いて、テーブル前であぐらをかいた。


 ☆


 制服にエプロン姿の加奈子が、湯気で眼鏡を曇らせて、晩ご飯をテーブルに運ぶ。右手には野菜炒め的なモノ、左手には大盛りのご飯が入ったドンブリを持って。加奈子は先に腰を下ろし、正座をしてテーブルに並べた
「頂きます」
 俺は食おうとすると……加奈子は『あいかあらずコップが無い』と、呆れ果てた面持ちで、腰の辺りに手をやり、エプロンを外す。
「普段使わないからな。前来た時も無かっただろ?」
「そうだったな、忘れていたよ。兄貴」
 ベットに頭をもたれさせて、プリーツスカートのポケットからハンカチを出した。加奈子は油と湯気で、汚れた眼鏡を拭く。うなだれて、『兄貴がご飯食っている間に、シャワー浴びてくるよ』――その場でブレザーの上着を脱ぎ、ネクタイを外した。
「加奈子。この野菜炒め、苦い。ちゃんと火……入れたか?」
 その言葉を聞くと立ち上がり、スカートを回して、ジッパーを下ろす。すらっと、紺のスカートが床に落ちて、俺を見る。
「苦瓜は、そのぐらいが、一番旨いんだ。兄貴」
「癖は消すもんだろう」
 本気で俺はそう思うが、『風味が無くなるから、駄目だな』ガンとして聞き入れない加奈子は、ブラウスのボタンを下から外していく。そこで、ふと……思うことがあった。
 コイツ、どうして制服なんだ? 一旦実家に帰ってから、俺の家に来たんだよな? だったら……
 辺りを見渡すと、はやり茶色のボストンバックが、テレビの横に置いてあった。まあ、いいかな。制服が好きなんだろう。
「加奈子?」
「なんだ。兄貴」
 加奈子の姿をぼうっと、見た。少し間を置いて、『いや、何にもない』そう言うと――
 又、加奈子はキョトンとした顔になった直後。『兄貴、制服にエプロン姿。欲情したんだろう。ふふふ』ベットに仰向けになり、悪戯っぽい顔で、下着姿の加奈子が居た。
「ホレ、兄貴。コットンの下着はどうだ? 普段はこんな子供らしい下着など、着けないんだがな」
 俺は苦い野菜炒めを摘み、白ご飯をかっ食らった。
 背中を二、三。加奈子に足のつま先で子突かれ、『じゃあ、兄貴。シャワー浴びてくる』と言って、クリーム色の生暖かい下着を、俺の頭に乗せる。
 玄関横の浴室のドアを開けた、裸の加奈子が……
「覗いてもいいが、中まで入ってくるなよ」
 俺は、食うのを止めて、加奈子に言ってやった。
「ガキの身体には興味は無いな。阿呆」
 加奈子は何か思うように間を空け、浴室に入る。が、又ドアを開け、覗かせるように顔だけを出して一言。
「よく言うよ兄貴。――――結局抱く癖に」
 ――バタンと、大きな音をさせ浴室のドアが閉まる。俺はこの、苦ったらしい野菜炒めを、全部食った。


 ☆


 全て食い終えた俺は、皿とドンブリはそのままテーブルに放ったらかしにして、冷蔵庫に向かった。俺はしゃがみ込んで、冷蔵庫を開け、先程無秩序に突っ込んだ缶ビールを右手に取り、プルタブを開放する。冷え切っていない、ヌルいビールを喉に流し入れて、足で冷蔵庫のドアを閉めた。
「ぷはっ」
 不味いが、アルコールを摂取出来ればいいか。更に足で冷蔵庫のドアを開け、しゃがむ。手前から二本、缶ビールを左手で取ってベットに投げた。又足でドアを閉め、テーブルに向かう。
 フローリングに寝そべり、テレビのスイッチを入れ、現状を確認。そしてセーブを取る。FCのスイッチをOFFにし、テレビのスイッチを切った。
「あーあ。どうするかな」
 などと言っても、セーブを取ってゲームを終了させている俺は、もうそのつもりだろ。用意周到に缶ビールを二本、ベッドに放ってあるんだ……
 ――まあ、いいか。
 半年前も、こんな感じだったような、そんな気がする。
「ああ、そういえば、藤村の時も――酔って藤村を抱いた時も、こんな感じだったよな」
 飲み干した缶ビールを、流し台に在る、ゴミ箱に向かって投げた。カッカラカン。空き缶は、ゴミ箱の縁に当たり、玄関の方に転がって行く。
 コツンッ。
「下手糞」
 シャワーから出てきた加奈子の足に、空き缶が当たり、不機嫌そうに言う。前かがみになって、右手で空き缶を拾いあげる加奈子の姿は、身体中から湯気が噴き、黄色いバスタオル一枚だけだった。
 眼鏡は胸元辺りのバスタオルに挟み、更に空き缶をそっとゴミ箱に入れる為、加奈子は前かがみになる。黒い髪は、拭き切れなかった水の雫が滴り落ちて……
 その細い後ろ姿を目の当たりにすると、俺の抑圧された欲望を開放するには、十分過ぎる程のモノだった。
「兄貴。電気、消す……よ」
 俺の確認も済まさずに、部屋が消灯した。
 新たに、ベットに在る缶ビールを取ろうと、手を伸ばすがなかなか見つからず、右手を動かす。缶ビールの代わりに触り覚え――触り心地の良い、ほのかに暖かい、少し濡れた質感に触れた。
「ふふふふ。気が早いな」
 耳元で、加奈子の囁くような声が聞こえる。『兄貴、ココだよ』俺の手首を握る加奈子は、少し手首を持ち上げて、手の甲に柔らかい何かに、当てた。
「加奈子、ビール。飲みたいんだけど、いいかな?」
「ああ、そうだったな。兄貴」
 俺の掌に、ヌルいビールが握らされて、『私も頂くよ』その声と共にぷしゅっと、缶ビールの開いた音がした。
 俺もぷしゅっと缶ビールのプルタブを開けて、一気に飲んだ。
「カハッ、カハッ」
 気管に微量のビールが進入して、咽せ返らせる。
「兄貴? 緊張しているのか?」
 俺は少し馬鹿にされた気がして、加奈子のむにゅうとした胸の谷間に、ゆっくりと、掌を押し込める。――どくんどくんどくん。
 その鼓動の早さが、加奈子の状態を俺に知らせる。
「お前程じゃないさ」
「そうだね……兄貴」
 俺の手を、加奈子は強く引っ張りあげて――誘う。加奈子は仰向けに寝ていて、布団をシッカリと握り締めていた。加奈子の身体を跨り、覆い被さる俺は、既に分かりきっている事を聞いた。いや、確認した。
「いいのか?」
 急に俺の眼の辺りに、眼鏡が当たる。額も加奈子の狭い額に当たった。背中に、ぷにゃっとした二本の腕が滑り、俺の胸が圧迫された。感覚を麻痺させる加奈子の胸は、俺の胸で広がりを見せ……加奈子の顔が俺から離れて、少し恥かしそうな表情に、魅せられた。
「半年前と、同じ事言うんだな」
「覚えてない」
「だろうな……初めて抱かれたのが兄貴だし、私は兄貴の女だ。気にするな」
 その言葉に脳は揺さ振らる。加奈子の優しく暖かい柔肌は、俺の身体に纏わり付いて、何度も。そう何度も、眼鏡が俺の額を叩いた。


 ☆


 『彼、女さ、んは……いい、のか?』。
 加奈子の甘い、吐息中に紛れ込んだ想いは、俺の微かに残る意識には届かず。欲望剥き出しの本能に掻き消された。ただ、加奈子の暖かく崩れそうな、白桃色に染まる汗ばんだ肌に――――俺は、幾度もなく貪りついた。



 4.
「ん? 何だ?」
 何か、何かの振動音が、俺を呼ぶ。
 汗だくのまま、裸で寝ていた為に、冷え切った身体が俺の目を覚まさせる。
「ああ。携、帯、か」
 手探りで、テレビ辺りに放り投げたスーツの上着を探す。
 手応えはなく、俺は上布団と共に、安物のベッドから滑り落ちた。
「いったい、何時なんだ」
 這い蹲りながら、テレビの上に引っかかる上着を掴んで、引っ張り落とした。床に叩きつけられて、ポケットに入っていた携帯は、フローリングの上を踊る。
 部屋中に鳴り響く電子音は、加奈子の着信に設定してあったB’zの曲。LADY NAVIGATIONと認識し、寝呆けて携帯を掴んだ。
「なに?」
「兄貴、兄貴、兄貴、兄貴」
 ああ、確かに加奈子の声だ。かなり忙しない。這いずりながら、聞く。
「どうした?」
「兄貴、助けて。兄貴――兄貴」
 ええ。何? 良く分からん。その辺に転がっていた、缶ビールの飲みくさしが手に当たる。多少残っていたので、ゴロンと仰向けになり、喉に上から叩き込んだ。
「加奈子だよな? 加奈子の声だし」
「兄貴!」
 ええと、ああ? 何してんだ? 加奈子。頭が全く働かない。空になった缶ビールを、無意識にその辺に投げ捨てて、テレビ台の中に在る、DVDプレイヤーを見た。
「あ、に、きぃ……」
「ちょっと待て、もう朝か?」
「助けて、よ」
「ああ、助けるよ」
 そう言って、俺は携帯を切った。先程見たDVDプレイヤーには、二時十八分と緑色に発光し、ぼやけた視界で認識した。
 いつの間にか出かけている加奈子に疑問を感じたが、喉が渇いたので、近くの自動販売機に飲み物でも買いに行ったんだろうと、勝手に解釈した。
 ひんやりと冷たいフローリングに、うつ伏せで転がる俺は、徐々に意識が戻ってきている事に気が付いた。
 左手に掴んでいた携帯が、又振動する。少し、そのままにしていたら、又……B’zの曲が鳴り出した。LADY NAVIGATIONだ。親指で通話ボタンを押し、右耳に当て、携帯を持ち替えた。
「お前、何処に居てんだ?」
「兄貴。どうして? どうして切るんだよ」
「切ったような、切ったよな? ええと」
 電話越しに、加奈子の泣き声が聞こえ出した。ひっく、ひっくと。
「本当に、ほんとうに、あにきぃぃ」
 とりあえず、脱ぎ散らかせたスーツを探し、着る事にする。『又、電話するから』と、加奈子に言い聞かせ、しわくちゃなトランクスを穿き、ヨレヨレの薄い藍色のシャツを着る。少々油が染み付くスラックスを腰に引っ掛けて、上着を羽織った。薄暗い中、テーブルに蹴躓きながらヨタヨタと、おぼつかない足取りで、玄関に向かった。


 ☆


 玄関のドアを開け、錆び付いた鉄の非常階段を下りながら、上着の両ポケットに手を入れる。右手に冷たい感触が在り、愛車の鍵を確認して――ホッとする。
 マンションという名のアパートを出る時に、マンションの入り口付近に停めて在る、加奈子の赤いママチャリが、見当たらなかった。アイツ、どこまで行ったんだ? 立体駐車場に向かう足取りを、少し早めた。
 表通りの街灯も消え、真っ暗な中。弱々しく光を放つ自動販売機が目に入り、立ち止まる。スラックスの後ろポケットに両手をやり、小銭を掴む。適当に投入口に小銭を放り込んで、つめたいペプシコーラのボタンを押した。
 自動販売機からペプシを取り出し、じゃらじゃらと、つり銭が落ちてきた。それを掴み、俺は走りながら、冷え切ったペプシの缶を額に当てる。
「コレで眼が冴えるか?」
 次に首元にペプシの缶をやり、俺の体温が一気に下がる。流石に眼が冴えわたってきた。目前に立体駐車場が姿を現してきて、飲み切った空き缶を握り締め、その辺りに放り投げて走る。
 立体駐車場の入り口で、音だけは立派な防犯解除の電子音を鳴らす。電波を受けたステージアの防犯システムは作動し、俺はステージアが在るスペースに着き、運転席のドアを開けた。
 カリッ。勢い付いて、隣に駐車して在った、一番下のクラスのマーチにピンホールが開く。俺の判断で気にならない程度だった。気にせず低く鈍いエンジン音を鳴らし、大きくハンドルを切る。そうして、いつものようにRにシフトを入れる。アクセルを踏みバックのまま、立体駐車場を後にした。
 左手でシャツの胸ポケットから携帯を取り出して、親指でカタカタと乱暴に扱い、着信履歴の加奈子に表示を合わせて、電話を掛ける。ルームミラーとサイドミラーのみで、表通りまで続く路地をバックで駆け抜ける。右手でハンドルを操作し、左手の携帯を右耳に当てた。
 俺のステージアを一旦表通りに路上駐車させて、加奈子が出るのを待った。
「兄貴。遅いよ、頼むよ」
「すまん。今の居る場所は何処だ? 迎えに行くわ」
 加奈子の掠れ切った重々しい、独り言のような呟きで、『ふじむら、さん』と聞こえた。
「そうか。解った」
 忘れていた車のライトを点灯させる。シフトを一番下まで引き込み、アクセルを踏みつけた……


 ☆


 加奈子がどうして藤村の家に居るのかは、安易に想像がつく為、置いておくとして。一体何があったというのだ。
 各信号の黄色の点滅を確認しながら、シフトをDに入れる。このペースだと、八分で市内に着くだろう。後部座席の足元に転がる、缶コーヒーを手探りで漁る。鈍いエンジン音は更に勢いを増して行く。
 探し出した缶コーヒーを適当に飲み、ドリンクホルダーに差した。俺は少し落ち着こうと、スラックスのポケットを上から叩く。膨らみを感じて、原型を留めていないCOOLボックスを取り出し、煙草を咥える。いつものように藤村から貰ったジッポーを、天井のサンバイザーから取り出してきて、煙草に火をつけた。
 何故加奈子が、藤村と俺が付き合っている事を知っているのか? 何故加奈子が、藤村の家から電話を掛けてくるのか? が、解らなかった。何か藤村の家で行われた事は解るが、その何かが解らない。
 話が終わったのなら、何も言わずに俺の側で裸になり、寝ていれば済む事だ。藤村の家から、あえて俺に電話をする必要性が感じられない。加奈子が、藤村と俺が付き合っているのを知っている事は、よくよく考えると……まあ、今日も勝手に俺の家に上がり込んでいるのだから、幾らでも機会はある。そういう事だろう。
 しかし。しかし、藤村の家で、何が?
 咥えた煙草を、先程の缶コーヒーに近づけ、灰を落とす。手をやって、運転席の窓を全開にする。そうして、煙草を左手から右手に持ち替えて、窓の外に出した。右手に風の抵抗を受けながら、藤村と加奈子の事を考えるが、シックリくる答えが、見付からず、俺を苛立させた。
 市内に入る辺りから、若干道が混み出してきた。藤村の家は、市内といっても少し中心部から離れていた為、渋滞に遭う事はない。シフトを2に合わせ、車道を走る、少なめの車を縫うように、俺の気持と同様、ステージアを急かした。



 5.
 車内のデジタル時計を見ると、二時四十七分。小奇麗にライトアップされた、無駄に仰々しい藤村のマンションに着く。
 ステージアを地下駐車場へ、とりあえず邪魔にならない位置にステージアを動かす。地下に向かう坂道を、ダンプしながら走らせて、エレベーター前右手の通路に、駐車中の車ギリギリ寄せるように操作する。
 一旦左にハンドルを切り、右にハンドルを切るポイントを遅らせて、アクセルをチョコンと踏んだ。ステージアのケツが少し滑り、駐車場内に甲高いタイヤの摩擦音が走る。外側のテールランプがガシャンと砕け割れて、衝撃音が駐車場内を駆け巡り、ステージアは駐車した。
 急いでシフトを跨ぎ、助手席に身体を動かせて、助手席側のドアを開ける。這うように車外に出た為、右足がシフトに引っ掛かり転げ落ちた。
 埃まみれになりながら身体を起こすと、割れ落ちた左テールランプが目に入る。『仕方が無いか……』藤村と加奈子の方が気になり、急いでエレベーターに向かって駆けた。
 ボタンを連打し、エレベーターが到着するまでの間。左後方が破損した、斜めに駐車するステージアを見つめる。鐘を突いたような音が鳴り響き、無言でエレベーターの中に乗り込んだ。
 すぐさま二十六階のボタンを押し、奥の壁にもたれ掛かる。室内に充満する、低く振動とも取れる音が、俺の苛立ちを増幅させた。更に鬱陶しいエレベーターは、背中越しに、俺の身体を振動させた。藤村の部屋の階に着くまでの間、数時間が経った思わせる程に、何かが俺に、重く圧し掛かった。
 又……鐘を突いたような、高い音が鳴り、俺は嫌な感じを噛み締めながら、通路に出た。
 深い藍色の絨毯を、一歩づつ踏み固めるように歩く。この嫌な感じは何だ? この重く圧し掛かる何か? は一体。俺は普段感じない、胸の奥がざわついて、不自然な感覚に身を包まれた。
 一歩、又一歩。そうして、藤村の部屋の前に着いた。『気にならない方が、おかしいな』と、独り言をボソッと一つ吐いて、インターフォンを押す。
 ノイズが乗る、濁った電子音が、静かな廊下に響き渡る。しかし反応は無い。無言で、再度インターフォンを押した。同じように、ノイズが乗る濁った電子音は、虚しく廊下を反射するだけだった。
 流石に悪い方向にしか考えられない俺は、変に落ち着き払って、少し冷たいドアノブを握る。ひねると、もう知らぬ存ぜぬを決め込む事は、不可能と感じ、一瞬躊躇したが……
「そういう訳にもいかんな」
 ふう。と、ため息を吐いて、ノブをひねり、ドアを引いた。



 6.
 藤村の部屋は、入って通路を二、三歩進むとリビングが在り、ドアを開けた俺は、まず明るいリビングが目に入った。
「加奈子、加奈子」
 下駄箱に手を置き、身体を支えながら、色落ちした革靴を脱ぎ、居るのかを問いかける。
「藤村」
 壁に右手をついて、ゆっくりリビングに向かう。リビングの奥に在るテレビが、うるさく音を発する。その中に、微かに聞き取れた、声とも取りづらい、弱々しい音がした。
「加奈子か?」
「あ、にぃ」
 右手のキッチン辺りから、加奈子と思える声がして、真っ暗なキッチンルームに入る。暗闇の中で、キッチンの入り口にハミ出すように置いて在った、木製の椅子に足を取られ体勢が崩れる。俺は流し台に手をやり、膝を付いた。
 顔を上げると冷蔵庫の床辺りに、滲むような橙色の光が見え隠れする。『加奈子か?』と、俺はその光に向かって、問いかける。すると……
 「兄貴。ごめん」
 と、加奈子の声が返ってきた。
 その光に近づくと、冷蔵庫にもたれ掛かり、小刻みに震える加奈子の姿が在る。胸元に、両手で携帯を握り締め、加奈子の震える手は、携帯のボタンを叩く事を止めなかった。
「大丈夫か?」
 しゃがみ込んで、加奈子の両肩を抑えて聞く。加奈子は無言で、俺の腰に手を回して抱きつく。『私は、大丈夫だ。でも』と、強い力で加奈子に――抱きつかれた。
 私は。加奈子は、そう言った。加奈子は――私はと。私は大丈夫だと。俺の胸に、顔を押し付ける加奈子を引き離し、『藤村はどうした?』と聞く。
「兄貴、あそこに」
 又、顔を胸に埋める加奈子の指差した先には、薄い黄色のアクリル板のテーブルが在った。長方形の厚いアクリル板の角に、赤黒い斑点の模様が見える。その模様は、その角にしかなかった。テーブルの真下に、スラリと細い見覚えのある脚が見えた。
「加奈子。お前、もしかして」
 その俺の言葉を聞いた加奈子は、身体の力が抜けて、崩れ落ちる。俺の足にしがみつく加奈子は、『私じゃあ、ない』と。そう言って泣き出す。眼鏡は、崩れ落ちた時に飛び、床を滑り、リビングの絨毯で止まった。
 とりあえず、このどうしようもない――最悪の状態に直面した事は、俺でも分かった。加奈子に再度確認する。そうしないと、次に進めない。放っておく訳でもなく、逃げ出す訳にもいかない俺は、何をすればいいのか? それを考えなければ、ならなかった。
 流石に、まあいいか。とはいかない。確かに、いきたいとは思うが、加奈子の手前、そういう訳にはいかなかった。
「加奈子。お前じゃあ、ないんだな?」
 足元でしがみつく加奈子に問いかけると、何度も頭を縦に振り、幾度もなく『兄貴』と繰り返した。
「解った。何とか……どうにか、するか」
 俺はしゃがみ、加奈子の両脇に手をやり、そっと身体を持ち上げて、俺に抱きつかせる。その体勢のまま、キッチンの入り口まで引きずるように歩き、無造作に置いて在った椅子に、加奈子を腰掛けさせた。
 絨毯に少し埋もれた眼鏡を取ろうと、前かがみになって眼鏡を掴み、身体を起こす。目の前で、色素が抜けた髪に赤く濁ったモノが、髪へ浸透するように染め広がっている。
 ――言葉を失うような、藤村の姿が在った。
「ああああ」
 一見して、すぐに手の施しようがない事に気付く程、藤村の状態は終わっていた。仰向きで、ぐにゃりと転がった後のように、左腕は背中に回っている。白の男物のパジャマは、背中から肩にかけて血液を吸い、こげ茶色に拡がり侵食していた。
 この初めて見る藤村の表情は、口を半分開けた舌が垂れ出している。眼は、どこか遠くを眺めているが、焦点は全く合っていなかった。俺は何も言えずに、発する言葉もなく。ただ、ただ身体ごと、目を逸らした。
 又、眼鏡が転がって行った。


 ☆


 俺は真っ暗なキッチンの中で立ち尽くす。
 何をしたらいいのか? 加奈子にどう言葉を掛けてやればいいのか? 分からないまま、時間だけが過ぎていく。
 腰から落ちるように床に寝そべり、右手を眼にやって、無理やり閉じさせた。
「兄貴。どうしよう?」
 加奈子の悲痛な声が、テレビにかき消されながら、俺に届く。まとまりきらない、頭の中で混乱して暴れまわる考えは、全て使えないモノだった。
 加奈子に何か言ってらやないと。それだけは何処か頭の中の片隅で、俺を責め立てる。もう、訳が分からなくなって、まともではない俺は、加奈子の事だけを考えて、言い聞かせた。
「俺が、俺が……藤村を、殺したんだ」
 口が意思を持ったように、動き出した。ある俺の何かが、勝手に加奈子に伝える。
「加奈子と藤村が、口論をしている時に俺が呼び出される。そうして、ヒステリーを起こした藤村が、加奈子を殺そうとして、包丁を持って襲い掛かる。丁度俺が、中に入ってきた」
 そこまで答えは出ると、後は簡単だった。信じがたいが、俺の腹の中で、既に出ていた答えだったのだろう。その方法しか、加奈子を助ける事は出来なかった。それ以外には、何も思い浮かばなかった。
「兄貴。私は、藤村さんに、兄貴と別れてくれと、言っただけだ」
 テレビにかき消されない、力強い声が、キッチンに走る。右手で眼を押さえ、寝そべる俺の身体に、暖かい柔らかいモノに締め付けられた。眼を開けると、加奈子は俺に覆い被さり、生暖かい涙が俺の頬をついた。加奈子の涙が、ぼたぼたと落ちてゆき、俺の頬と首元を熱くする。
 加奈子は精一杯の力で、俺の胸を拳で叩きつけた。右手で何度も、違う私は違うと、想いを伝えるように俺の胸を打つ。俺は、痛いぐらいに、気持が伝わってくるのが分かった。
「あにきぃ。信じてくれよ……藤村さんと、揉み合いになって、倒れたらこうなったんだ」
 俺は加奈子の身体に、両手を背中に回して抱き締めた。だが、この話を聞いて、信用して貰えるとは思えなかった。一瞬、何とかなるか? とも思ったが、俺が捕まった方が、話は早かった。
「お前の事は信じるが、本当の事は、加奈子と藤村しか分からない。解ったな?」
 叩くのを止めた加奈子は、『解ったよ、兄貴』と低く細い声で返事をして、よろけながら立ち上がった。俺はすぐに、スラックスのポケットに、手を入れる。寝そべりながら、全てのポケットをまさぐって、最後右後ろポケットからステージアの鍵を取り出し、加奈子に投げた。俺も床に手をついて、よろけて立ち上がる。加奈子の肩に鍵が当たると、それは床に落ちた。
「加奈子。お前は地下駐車場に停めて在る、ステージアの中で寝てろ。俺はこれから警察に電話するから」
 そう言うと、加奈子はしゃがみ込んで、ステージアの鍵を握り締める。『ああ』と、そう呟いて、玄関に向かった。
 俺は何か言わないと。と、衝動に駆られ、加奈子を呼び止めた。
「心配するな」
 流しに腰掛けて、俺はそう言った。足を止めた加奈子は、肩を上下に震わせ、悔しそうな声で、『私はいいんだ。兄貴が……』振り向かず呟いた。俺の返事を待たずして、玄関に着いて表に出た。



 7.
 流しから降りた俺は、辺りを見渡して例のモノを探す。が、見つからず。流し台、コンロ。驚く程、モノが置かれていない事に気付いた。ただ、ガラスのコップだけが二、三在るだけだった。
 俺は少しかがんで、流し台の引き出しを開ける。中に、探していた包丁が何本か在り、手前の包丁を取り出した。
 その使われた形跡がない包丁を、俺は左手に握る。そうして、右の掌に押し付けた。少し包丁を引く。だらだらと血が滲み出てきて、加奈子を庇い藤村が切りつけた包丁の傷が、掌に出来上がった。
「後は警察に、嘘の事情を説明するだけだな」
 そう俺に言い聞かせて、藤村が横たわる、リビングに向かう。右手から血液を垂れ流し、床に零れ落ち模様が広がった。
 とりあえず、テーブルの手前に在る、三人掛のソファーに座る。すぐに横になって、頭を肘置きに乗せた。アクリル板のテーブルの横から、朽ち果てた藤村と眼が合った。右足でテーブルを押しやって、藤村を隠す――見えないようにした。
 上着のポケットに両手を通す。左手に携帯が当たり、取り出して見る。警察に電話をしようと、左の親指でそのままボタンに触れるが、震えて押せない。右親指で、上から無理やり左親指ごと押し付けた。
 携帯の液晶は、三時を表示していた。
「すみません。彼女が死んでしまいました」
 声は上ずり、真っ白になった頭を振る。警察に、藤村の住所を伝える事しか、俺は出来なかった。何度も藤村の住所を、携帯に吐きつける。『分かりました。今から向かわせます』の声を聞いて、すぐに電話を切った。
 ソファーから、だらりと携帯を持つ右腕を垂らし、それが掌から抜け落ちた。携帯は絨毯を跳ねて進んでゆき、テーブルの下に落ちていた、眼鏡に当たり止まった。
「加奈子」
 眼鏡と携帯の側に、藤村のモノと思える日記帳を見つけた。先程藤村を隠そうと、テーブルを動かした時に、上から落ちてきたのであろう。加奈子と藤村の事情が気になり、日記帳を取ろうと俺はソファーから転げた。
 藤村が視界に入り、バツの悪い思いがした。俺は藤村を見ないようにして右手を伸ばし、眼鏡、携帯、日記帳をこちらに引きずり込む。そのまま横たわる体勢で、日記帳をパラパラとめくり、ふと手が止まるページがあった。
 今から丁度半年前。加奈子が家出をし、実家に帰った日の事だった。初めて加奈子を抱いた日で、どちらかというと、親父に散々小言を聞かされた事が印象深い。
 その日記帳のページには……『無言電話が酷い』と、途中からボールペンのインクが切れて、文字の跡が残っていた。


 ☆


 テーブルを介して、終わっている藤村が居る。仰向きに佇む俺は、もう、吸いきった白とも言えないパジャマを見ても、何も思わなくなっていた。今はただ、警察が来るのを待つだけになる。
 うるさく、リビングを駆け巡るテレビの、やけに大きい音声が耳についた。流石にそっとして置いてくれよ。と、そう思い、テーブルに置いて在るリモコンで、テレビのスイッチを切る。
 再度、藤村の日記帳を眺めても、気になったページ以降は普通の日記帳だった。ただ、何かと『無言電話が』と、書き込まれていたが、特別真新しい事が書かれている訳でもなかった。
「加奈子……」
 絨毯に少し埋もれた携帯が、もぞもぞと動き出した。手に届く範囲に置いておいた為、右手をやる。数回、振動した後に、LADY NAVIGATIONの電子音が鳴り出した。どうしたんだ?
 俺は急いで手をやると、人差し指の爪が携帯に当たり、絨毯を滑りながら、テーブルの脚にぶつかる。
 その、衝撃で、携帯が通話状態になった。
 『ごめん』
「何がだよ」
 咄嗟に俺は反応し、気が付くと既に叫んでいた。
 電話越しに、パトカーのサイレンが聞こえる。又、電話から『兄貴。ごめん』と、声が聞こえた。その後に、密閉性の高いステージアのドアが閉まる音がして、走るような足音がした。足音が共鳴して、地下駐車場と思われる場所に鳴り響いて、その音と共に電話が切れる。最後に、加奈子の荒い息が、リビング中に流れた。
「くそぅ」
 何がなんだか分からなく――解らない事になっていた。
 もう俺の中で、事故なのかどうなのか? 解っていた事は、俺は警察に捕まる事が出来ない事と、無言電話に対しての、藤村のSOSに、気付いてやる事が出来なかった事だ。
 俺はこうして、警察と加奈子が来るまで、待つ事しか出来ない。全て俺が悪い訳じゃないが、全て俺のせいでもある。何をする訳でもなく、何も考えずぼうっとする俺が、全ての元凶だった気がした。ただ流されるように、物事が進んだだけ……
 だが、どうかしようとも、考えられなかった。
 力が入らない右手で携帯と眼鏡と掴み、上着のポケットに入れる。そうして俺は、口を瞑り、奥歯を噛みしめた。
 だらけ切った身体を起こして、ソファーに崩れるように座る。深く沈むソファーに身体を取られふらつくが、左手を肘置きにやり、支えて持ち堪えた。だが奥歯で、口の内側を切り、錆びつく鉄の味がする。
 ――加奈子が作った、苦い野菜炒めと、同じ後味がする。
 俺は、言葉が出なかった。
 背中越しに、玄関のドアノブがひねられる音がして、勢いよくドアが開けらる。首だけを玄関先に向けると、数人の人影が入ってきていた。その人影の向こうに、二人程脇に連れた、加奈子が居た。
「加奈子」
「兄貴」
 そう会話を交わして、二人の人影に連れられて、部屋の中に入ってくる。加奈子の姿を見るのは、これが最後だった。



 8.
 あれから数日後、俺は会社を辞めた。実際同僚が死んでいて、犯人は加奈子になっていた為だ。正直未だ事故なのか? どうなのかが分からないが、犯人の兄だからと、何かと会社で噂される。かなり鬱陶しくなってきて、会社に行くのを辞める事にした。
 家の近くに在る、古ぼけた良い雰囲気の店で働く事にして、難なく働けるようになる。そのスーパーのようなコンビニのような店で、仕事を終えて帰ろうとした時に、ふと……
 野菜を買って帰る事にした。
 日は落ちて、街灯がぼやけて光る表通りを一人で歩く。二分程して、一応赤いレンガの、一応マンションと呼ぶ建物に着いた。あいかわらず錆び付いた非常階段を上がり、部屋に着く。少し小汚くなった部屋を見ながら、流し台に向かった。
「何年ぶりだろうか?」
 何が何処に在るかが分からなく、四苦八苦し、どうにかフライパンを火にかけた。
 俺の中で、何かが激しく揺れ動く。
「愛しているから……」
 加奈子呟いた最後の言葉が、痛々しく俺を突いた。その意味の推測は付いたが、いつまでも確信には変わらない。
 パチパチと、フライパンから何かが弾ける音がして、油を探すが中々見つからない。諦めて左足を伸ばし、冷蔵庫を開けた。フライパンを火にかけたまま、冷蔵庫の中を物色し、中から固まりきったバターを取り出した。
 半年前に家出をしてきた加奈子が、買っていたような気がして。探してみるものだ。
 そうして、適当に野菜を手でちぎり、その辺りに置くと、フライパンから真っ白な煙が立ち上がる。結構な量の、長方形の形をしたバターを、フライパンに放り込んだ。一瞬にしてバターは溶けて、真っ黒に染まっていく。すぐさま野菜を投入し、その野菜で蓋をする形になった。
 たまたま、フライヤーらきしモノを見付け、すぐにかき回す。まあ、もの凄く不味そうだが、食えない事はないだろうと思い、火を消した。
 あの日、苦い野菜炒めを食べ終えた皿を思い出し、テーブルに向かう。いつものようにテレビのスイッチを入れて、FCのスイッチをONする。また同じようにゲームを始めて、当たり前のようにテレビのスイッチを切った。俺は右手に食べ終えた皿を持ち、流し台で野菜炒め的なモノを、その皿に入れた。
 余りにも――目に余る程に油まみれだった為、先程のフライヤーと皿を挟み油を搾り出して、流しの排水溝に油を流した。
 その間。あの日を思い出す。
 『加奈子、お前……なのか?』
 『兄貴は信じてくれると、思っていたのに』
 『じゃあ、なんで警察に?』
 『兄貴の事、愛しているから……』
 俺は、あの日交わした加奈子との会話を、鮮明に覚えていた。
 油を絞りきった野菜炒めを流しの横に置いて、フライヤーを流しに投げ入れた。鉄が擦れる音がして、俺はテーブルに向かう。テーブルに野菜炒めを置いて、安物のパイプベッドにもたれ掛かるように、あぐらをかいた。
 テーブルを俺に引き寄せて野菜炒めを食おうと思うが、箸が無い事に気付く。
「在ったよな」
 苦い野菜炒めを思い出し、テーブルの右手にドンブリの縁で両端を支えていた箸を見つけ、それを取った。
 野菜炒めを食おうとしたが、何故か箸を持つ右手が止まる。少し重い沈黙が漂い、箸をテーブルに置いた。
「事故かもしれない……」
 ここ数日、俺の中で揺れ動く何かがあった。心の何処かで引っかかる言葉が、『愛しているから……』だった。――この加奈子の言葉だ。
「俺と同じく。加奈子は、俺を助ける為に」
 そう言うと俺は、胸が締め付けられる思いがした。ドンドンと胸を叩きつけられる、あの感覚。確信には変わらないが、加奈子の事を信じようと想い、野菜炒めに箸をつけた。
「加奈子」
 自然と眼から涙が溢れ出し、頬をつたい首元に流れた。又、ドンドンと胸を打ちつけられる感覚が巡り、加奈子の熱い涙の感触が、全身を覆いつくす。
 顔をうつ伏せて、静かに野菜炒めを口に入れた。
「うう、うううう」
 俺は、思い切り吐いた。
 野菜が、食道を通る事を拒絶して、足元に吐き出された。


 ☆


 するハズのない、あの時味わった、あの、同じ後味がする。苦くもない、ただの野菜炒めから、錆びついた鉄の味がして。
 咽び返りながら顔を上げる。だらだらと流れ出した胃液を拭く事もなく、茶色のボストンバックを見つめた。
 そのボストンバックの上には、『兄貴へ』と書かれたルーズリーフが在り。そのルーズリーフの下には、コットン地の下着が綺麗に畳んで在った。
 「加奈子」
 その横には……
 俺が置いた、加奈子の眼鏡が在った。

  1. 2006/09/04(月) 00:00:17|
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