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こちらは、主に素直でクールな女性の小説を置いております。おもいっきし過疎ってます
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苦い後味

1.
「ねえ? 何時になったら、鞄……買ってくれるの?」
 かったるい仕事を終えて、家でゆっくりしようと思っていたが、嫌な女に会った。まあ、待ち伏せされた。――訳では無いが。
 当たり前のように会社の前で、『今日も悪いわね』と。そう言われ、地下の駐車場までついて来た。
「聞いてるの?」
「ああ、聞いてるよ」
 適当に相槌を打つ俺は、とっととコイツを家に送ろうと、若い頃に無理をして買った、ステージアを走らせる。助手席で、物の価値も分からない物欲主義者が、グダグダと囀る。
「今度の仕事が上手くいったら、臨時で寸志が出るから、それで買ってやるよ」
 出るはずなの無い寸志を餌に、この場を誤魔化す。『ホント? 嬉しいわぁ』と、眼が全く笑っていない、このツマラナイ女は――藤村恵子(ふじむらけいこ)
 部所は違うが俺の同僚で、仕事は出来るが、基本的に駄目な女だ。髪はセミロング、薄く色を抜いた髪質。襟を立て、ブラウスのボタンを二つ開けていて、チラチラとブラを覗かせる。一瞬誘っているのか? 思った事もあったが、実際誘っているのだろう。
 藤村は美人で頭は切れるが、男に依存していて、自立出来ていない。その癖――男を卑下し物乞いをする。ただ……依存しきっているだけあって、SEXだけは巧い。それだけの女だ。
 まあ、それだけでも男にとっては、十分価値は在るだろう。月に四、五万の餌を与えるだけで済むのだから、安いものだ。だから半年前から、付き合っているのだが、自分の価値も分からん女に、物の価値を分かれと言うのも酷な話だ。そっとして置いてやろう。
 車を走らせる事二十分。この女には勿体無い程の高層マンション、地下駐車場。奥のエレベーター前に車を着けた。
「着いたぞ。又明日」
 俺は淡々と、そう言って圧力を掛け、藤村を車外に追いやる。
「え? 今日は、寄っていかないの?」
 と、藤村は窓越しから、物欲しそうに吼えた。週に三日も四日もたかられたら――鬱陶しくて、たまったもんじゃあないな……
 とりあえず。
「今日は疲れているんだ。一応用事も在るし、帰るわ」
 そういってRにシフトを入れ、アクセルを踏み駐車場を出る。転回が面倒なので、バックのまま車道に車を出し、車を走らせた。
 この女も潮時か? 流石に面倒くさくなってきた。どういう腹か知らんが、こう頻繁に誘われると、うざったくて仕方が無い。藤村の何が? 何をそうさせるか分からんが、男を卑下している癖に、寂しさを男でしか埋められない。その矛盾している所が、可哀相な女だ。
 なかなか別れられない理由が、藤村に対する同情に、あるのかもしれない。
 ダッシュボードの中から、食いさしのアンパンを取り出し、小腹を満たす。手に付いたパン屑をスラックスで払い、カーオーディオのスイッチを入れる。三十前のガキには不相応な、マッキントッシュのオーディオシステムから、B’zサウンドが鳴り響く。
「ふう、今日も何かと疲れたな。七時か」
 そう独り言を呟いて、車内で流れるALONEを口ずさみ、家に向かった。



 2.
 低く鈍いエンジン音が、静かな街並みに木霊する。少し幅の狭い路地を通り、駐車場が見えた。
 家から歩いて五分の立体駐車場一階に、愛車を一旦停止。駐車スペースに向かって、大きくハンドルを切り、そのまま頭から、ステージアを差し込んだ。車止めとフロントバンパーを少し擦らせて、駐車完了。
 ガチャリと、ドアを開け表に出ると、いつものように斜めに愛車が駐車されているが、そこはご愛嬌。まあ、スペース内に収まっているのだから、文句はあっても言えんだろう。と、防犯アラームを作動させ、効果の無さそうな電子音を響かせて、愛車ステージアを後にした。
 市内から少し離れたこの辺りは、市内に比べると、多少寂れてはいるが、まま――住むには不自由なく、ごちゃごちゃと……何かと小ウルサイ市内で住むよりは、俺には合っている。薄暗い街灯が立ち並ぶ表通りを、ぼつぼつと歩く。
 そうすると左手に、週に五回は行く、地域密着型のコンビニのようなスーパーのような。グロー球が切れかけて、カチカチと看板の電灯が点滅する、コンビニが見えた。
「そういえば、ビール。切れてたよな?」
 くたびれたスラックスの後ろポケットに、手を突っ込み、小銭を取り出し確認する。しわくちゃな札が二、三枚折り畳まれ出てきて、じゃり銭が数枚。思ったより入っていなかった。そういえば、何かと使ったような気もするので、気にせずに、上着の内ポケットから、フェイクレザーの長財布を取り出して中を見た。
「微妙」
 残金十六万程。そういえば……この前の給料を足して、幾らになっていたんだ? 毎月給料を、そのまま財布に突っ込む為に、よくは分からないが、余りピンと来ない数字だ。少ないような気もした。
「まあいいか。死にはしないだろう」
 そう言って、コンビニのようなスーパーのような店に入った。


 ☆


 『いらっしゃいませ』その声の主に軽く手を挙げ、一直線に酒コーナーに向かった。中は広々としていて、スーパーのような店だけあって、食品関係は充実している。コンビニ程、店内は明るくはないが、この微妙なバランスは、結構気に入っている。
 まあ、外で食うか、カップ麺しか食わない俺には、関係ない話ではあるが。
 目的の酒コーナー手前――野菜コーナーに、見覚えのある女子高生が、鼻歌交じりで、苦瓜を手持ちの籠に放り込んでいた。又か……
 俺は仕方がなく、女子高生に声を掛ける。面倒だな。
「加奈子。お前、又喧嘩したのか?」
「あっ、兄貴……」
 すうっと、苦瓜を差し出して『苦瓜食うか?』と、俺が嫌いなのを知ってる癖に。半笑いで聞く女子高生は――木ノ下加奈子(きのしたかなこ)
 俺の義妹。俺が二十の時に、母が再婚した父方の連れ娘だ。ここから車で二十分離れた実家に住んでいて、制服のまま来ていた。髪は適当に後ろでくくり、眼鏡を掛けて、優等生といった感じになる。
 初めて会った時は小学生だったが、加奈子が高校に入った頃から、父親とよく揉めて、家出をするようになっていた。始めは友人宅にお邪魔になっていたそうだが、こうちょくちょく来られても困ると、友人にそう言われ、俺の家に来るようになっていた。
 もう一年にも、なるのだろうか?
「要らん」
 と言っても、加奈子は元の場所に苦瓜を戻す事はなく、籠に入れる。『どうせ、ビールでも買いに来たんだろ?』と、加奈子は分かりきった顔をした。そうして俺達は、酒コーナーに向かう。
 加奈子は冷蔵庫から、冷え切ったビールを取り出そうとしたが、俺は制止して『ケースで買うから、要らんぞ』と、言うが……加奈子は、『とりあえず、冷えたビールが要るだろう』そう俺に返す。
「いや、冷えてから飲むわ」
 そう言うと『兄貴は母にそっくりだな』と、加奈子は言う。俺はそうかな? と、思いながら、ビール一ケースを肩に担いで、先に店を出た。そのあと加奈子が支払いを済ませ、古ぼけた良い雰囲気の店を出る。


 ☆


 加奈子と二人――並びながら家に向かう。薄暗い表通りを歩く中、『今はテスト休みだ。兄貴、心配するな』と加奈子が言う。親父と喧嘩して、家出をして来た訳ではない事が分かり、ホッとした。
 先ほど加奈子が、俺は母親に似てると言うが、そう言われれば、確かに……余り物事に干渉しない。気にしないと、いうと所は似ているのかもしれない。
 半年前に加奈子が家出をして、家に来た時には、結局一ヶ月間。別に実家に帰らせる訳でもなく、ただゴロゴロさせていたからな。
 加奈子は、母親似の俺と同じように、父親に似ている所があり、細かい神経でシッカリした性格だ。高校にもなると、思春期と共に自我が芽生え、口ウルサイ父親に反発して、家を出るのも……まあ、無理もないか。
 お気楽の母子に比べ、神経質の父子になると、反りも合わなくなる。俺は加奈子が家に来る事は、いっこうに構わないが、電話越しに親父の小言を聞くのが、億劫で仕方がなかった。
 とはいえ加奈子は、昔から母とは仲が良く、本当の血を分けた親子のように――傍から見ても、友達ように接している二人だった為、心配はしていなかった。
「私は後、終了式を済ますだけだが、兄貴の所は研修やらどうたらで、新入社員が来ているのではないのか?」
「そういやあ、そんな事。課長が言ってたな? 俺は商品開発プロジェクトで忙しいから……聞いてなかった」
 そう言うと、加奈子はキョトンとした顔になった直後。『そんなの……兄貴には関係ないだろ?』と言って、小馬鹿にしたように笑い出した。
 歩く事二分。マンションとは言いがたい、五階建ての築一三年。アパートと言ったほうが間違いではないかもしれない、茶色く呆けた――赤いレンガのマンションに着いた。



 3.
「ただいま」
 玄関のドアを開け、中に入る。
「お帰り」
 後方から、加奈子の声が聞こえた。
 住み慣れて、居心地の良い1Kの部屋は、少々狭いが俺にはピッタリだ。暗闇の中、俺は足の裏にフローリングの冷たさを感じつつ、流し台の隣に在る冷蔵庫前に、ビール一ケースを置く。そうして、テレビに近づきスイッチを入れる。映し出された映像に砂嵐の映像が流れ、画面左上に1と表示されている。そのまま俺は座り込み、足元に在るFC(ファミコン)のスイッチをONに入れる。カチッ――
 画面に、『ベストプレープロ野球’90』が表示される。すぐさま俺は、ペナントレースを始めた。試合が始まると、すぐテレビのをスイッチを切って、放置だ。後はオートでやってくれる。
 ゴロンと安物のパイプベッドに寝そべり、枕の辺りに在る百円ライターを取ろうと、手を伸ばした。
「あれ?」
 確か? 朝、目覚めの一服をして、枕の辺りに放り投げたはずじゃ……
 しかし、無いモノは仕方がない。胸ポケットから、くしゃくしゃのCOOLボックスを取り出し、煙草を咥える。上着の両ポケットに手を突っ込み、ライターが無い事を確認して、更にスラックスの全てのポケットに手を突っ込む。が、無い。
「車か……」
 余り確証はないが、そう決め付けて、昔リサイクルショップで買ってきた、テーブルに目をやる。暗闇で良く見えない為、ベッドから降りて、手探りでテーブルの上を漁る。百円ライターを探している間に、不意に部屋の蛍光灯が点いた。
「兄貴。ホレッ――ライターだ」
 急に百円ライターが、俺の目前を通り過ぎる。玄関付近の柱に備え付けられていた、蛍光灯のスイッチに手を添えた、加奈子の姿が在った。
「兄貴。下手だな?」
 無表情で、『早くビール、冷蔵庫に入れてよ』と俺に催促して、加奈子は台所と呼ぶ、狭い流し台の前に立った。
 テレビ付近に転がった、先程の百円ライターを四つん這いで取り上げて、仰向けに寝転がる。そのまま咥えていた煙草に火を付けた。辺りを見渡してみると、綺麗に片付いてあり、朝までの、俺の部屋とは大違いだった。
「なに? 加奈子。先にあがってたのか?」
 加奈子に聞いてみると、『これから一週間ぐらい泊まるから、片付けたよ』先程購入した、苦瓜を炒めながら、そう答えた。付け加えて『兄貴はいいとしても、私が嫌だからね』と、加奈子は先に手を打った。
 少々汚いぐらいが落ち着くのだが、まあいいか。俺は面倒だったが、ビール全てを冷蔵庫に入れる為に立ち上がり、流し台に向かった。
「さっきの話しの続きだけど……商品開発って、何を開発しているんだ? 兄貴」
「ああ?」
 缶ビールを冷蔵庫に放り込んでいたら、背中越しに加奈子の声がした。振り向くと、木綿豆腐を六等分に切りながら、ボウルに豆腐を流している――エプロン姿の加奈子。
「藤木さんや上村さん。後――藤村さん……一緒のプロジェクトなのか?」
「お前、よく俺の同期の名前なんか、覚えてるな?」
 フライパンに何かのタレを入れ、具材をひっくり返し馴染ませる。『まあね』加奈子はそう言って、調理を続けた。
「藤木と上村は一緒にやってるが、藤村は違うな。他の部所だ」
 確かに、俺の同期で一番仲が良い三人。何故か仕事だけは上手く行って、肩書きだけはそこそこの、主任とかにはなっていた。そういっても余り実感はなく、作業的に仕事をこなして来ただけで、面倒くさいだけだ。何かの拍子で課長になるかもしれないが、しかし、この適当な性格も知られている事だし大丈夫だろう。
「よか……った……」
 水が切りきれていない木綿豆腐が、フライパンに入り、油が飛び跳ね、加奈子の声を聞き取る事が出来なかった。
「何か言ったか? 加奈子」
「いいや。なにも」
 俺は『そうか』と言って、ビールを仕舞い冷蔵庫のドアを閉め、又ベットに横たわる。使い古したパイプベットが軋み、天井を見上げてぼうっとする。時折テレビのスイッチを入れては、ペナントレースの様子を確認し、テレビのスイッチを切る。
 流し台から『兄貴ぃ、ご飯出来たぞ』の、加奈子の言葉を聞いて、テーブル前であぐらをかいた。


 ☆


 制服にエプロン姿の加奈子が、湯気で眼鏡を曇らせて、晩ご飯をテーブルに運ぶ。右手には野菜炒め的なモノ、左手には大盛りのご飯が入ったドンブリを持って。加奈子は先に腰を下ろし、正座をしてテーブルに並べた
「頂きます」
 俺は食おうとすると……加奈子は『あいかあらずコップが無い』と、呆れ果てた面持ちで、腰の辺りに手をやり、エプロンを外す。
「普段使わないからな。前来た時も無かっただろ?」
「そうだったな、忘れていたよ。兄貴」
 ベットに頭をもたれさせて、プリーツスカートのポケットからハンカチを出した。加奈子は油と湯気で、汚れた眼鏡を拭く。うなだれて、『兄貴がご飯食っている間に、シャワー浴びてくるよ』――その場でブレザーの上着を脱ぎ、ネクタイを外した。
「加奈子。この野菜炒め、苦い。ちゃんと火……入れたか?」
 その言葉を聞くと立ち上がり、スカートを回して、ジッパーを下ろす。すらっと、紺のスカートが床に落ちて、俺を見る。
「苦瓜は、そのぐらいが、一番旨いんだ。兄貴」
「癖は消すもんだろう」
 本気で俺はそう思うが、『風味が無くなるから、駄目だな』ガンとして聞き入れない加奈子は、ブラウスのボタンを下から外していく。そこで、ふと……思うことがあった。
 コイツ、どうして制服なんだ? 一旦実家に帰ってから、俺の家に来たんだよな? だったら……
 辺りを見渡すと、はやり茶色のボストンバックが、テレビの横に置いてあった。まあ、いいかな。制服が好きなんだろう。
「加奈子?」
「なんだ。兄貴」
 加奈子の姿をぼうっと、見た。少し間を置いて、『いや、何にもない』そう言うと――
 又、加奈子はキョトンとした顔になった直後。『兄貴、制服にエプロン姿。欲情したんだろう。ふふふ』ベットに仰向けになり、悪戯っぽい顔で、下着姿の加奈子が居た。
「ホレ、兄貴。コットンの下着はどうだ? 普段はこんな子供らしい下着など、着けないんだがな」
 俺は苦い野菜炒めを摘み、白ご飯をかっ食らった。
 背中を二、三。加奈子に足のつま先で子突かれ、『じゃあ、兄貴。シャワー浴びてくる』と言って、クリーム色の生暖かい下着を、俺の頭に乗せる。
 玄関横の浴室のドアを開けた、裸の加奈子が……
「覗いてもいいが、中まで入ってくるなよ」
 俺は、食うのを止めて、加奈子に言ってやった。
「ガキの身体には興味は無いな。阿呆」
 加奈子は何か思うように間を空け、浴室に入る。が、又ドアを開け、覗かせるように顔だけを出して一言。
「よく言うよ兄貴。――――結局抱く癖に」
 ――バタンと、大きな音をさせ浴室のドアが閉まる。俺はこの、苦ったらしい野菜炒めを、全部食った。


 ☆


 全て食い終えた俺は、皿とドンブリはそのままテーブルに放ったらかしにして、冷蔵庫に向かった。俺はしゃがみ込んで、冷蔵庫を開け、先程無秩序に突っ込んだ缶ビールを右手に取り、プルタブを開放する。冷え切っていない、ヌルいビールを喉に流し入れて、足で冷蔵庫のドアを閉めた。
「ぷはっ」
 不味いが、アルコールを摂取出来ればいいか。更に足で冷蔵庫のドアを開け、しゃがむ。手前から二本、缶ビールを左手で取ってベットに投げた。又足でドアを閉め、テーブルに向かう。
 フローリングに寝そべり、テレビのスイッチを入れ、現状を確認。そしてセーブを取る。FCのスイッチをOFFにし、テレビのスイッチを切った。
「あーあ。どうするかな」
 などと言っても、セーブを取ってゲームを終了させている俺は、もうそのつもりだろ。用意周到に缶ビールを二本、ベッドに放ってあるんだ……
 ――まあ、いいか。
 半年前も、こんな感じだったような、そんな気がする。
「ああ、そういえば、藤村の時も――酔って藤村を抱いた時も、こんな感じだったよな」
 飲み干した缶ビールを、流し台に在る、ゴミ箱に向かって投げた。カッカラカン。空き缶は、ゴミ箱の縁に当たり、玄関の方に転がって行く。
 コツンッ。
「下手糞」
 シャワーから出てきた加奈子の足に、空き缶が当たり、不機嫌そうに言う。前かがみになって、右手で空き缶を拾いあげる加奈子の姿は、身体中から湯気が噴き、黄色いバスタオル一枚だけだった。
 眼鏡は胸元辺りのバスタオルに挟み、更に空き缶をそっとゴミ箱に入れる為、加奈子は前かがみになる。黒い髪は、拭き切れなかった水の雫が滴り落ちて……
 その細い後ろ姿を目の当たりにすると、俺の抑圧された欲望を開放するには、十分過ぎる程のモノだった。
「兄貴。電気、消す……よ」
 俺の確認も済まさずに、部屋が消灯した。
 新たに、ベットに在る缶ビールを取ろうと、手を伸ばすがなかなか見つからず、右手を動かす。缶ビールの代わりに触り覚え――触り心地の良い、ほのかに暖かい、少し濡れた質感に触れた。
「ふふふふ。気が早いな」
 耳元で、加奈子の囁くような声が聞こえる。『兄貴、ココだよ』俺の手首を握る加奈子は、少し手首を持ち上げて、手の甲に柔らかい何かに、当てた。
「加奈子、ビール。飲みたいんだけど、いいかな?」
「ああ、そうだったな。兄貴」
 俺の掌に、ヌルいビールが握らされて、『私も頂くよ』その声と共にぷしゅっと、缶ビールの開いた音がした。
 俺もぷしゅっと缶ビールのプルタブを開けて、一気に飲んだ。
「カハッ、カハッ」
 気管に微量のビールが進入して、咽せ返らせる。
「兄貴? 緊張しているのか?」
 俺は少し馬鹿にされた気がして、加奈子のむにゅうとした胸の谷間に、ゆっくりと、掌を押し込める。――どくんどくんどくん。
 その鼓動の早さが、加奈子の状態を俺に知らせる。
「お前程じゃないさ」
「そうだね……兄貴」
 俺の手を、加奈子は強く引っ張りあげて――誘う。加奈子は仰向けに寝ていて、布団をシッカリと握り締めていた。加奈子の身体を跨り、覆い被さる俺は、既に分かりきっている事を聞いた。いや、確認した。
「いいのか?」
 急に俺の眼の辺りに、眼鏡が当たる。額も加奈子の狭い額に当たった。背中に、ぷにゃっとした二本の腕が滑り、俺の胸が圧迫された。感覚を麻痺させる加奈子の胸は、俺の胸で広がりを見せ……加奈子の顔が俺から離れて、少し恥かしそうな表情に、魅せられた。
「半年前と、同じ事言うんだな」
「覚えてない」
「だろうな……初めて抱かれたのが兄貴だし、私は兄貴の女だ。気にするな」
 その言葉に脳は揺さ振らる。加奈子の優しく暖かい柔肌は、俺の身体に纏わり付いて、何度も。そう何度も、眼鏡が俺の額を叩いた。


 ☆


 『彼、女さ、んは……いい、のか?』。
 加奈子の甘い、吐息中に紛れ込んだ想いは、俺の微かに残る意識には届かず。欲望剥き出しの本能に掻き消された。ただ、加奈子の暖かく崩れそうな、白桃色に染まる汗ばんだ肌に――――俺は、幾度もなく貪りついた。



 4.
「ん? 何だ?」
 何か、何かの振動音が、俺を呼ぶ。
 汗だくのまま、裸で寝ていた為に、冷え切った身体が俺の目を覚まさせる。
「ああ。携、帯、か」
 手探りで、テレビ辺りに放り投げたスーツの上着を探す。
 手応えはなく、俺は上布団と共に、安物のベッドから滑り落ちた。
「いったい、何時なんだ」
 這い蹲りながら、テレビの上に引っかかる上着を掴んで、引っ張り落とした。床に叩きつけられて、ポケットに入っていた携帯は、フローリングの上を踊る。
 部屋中に鳴り響く電子音は、加奈子の着信に設定してあったB’zの曲。LADY NAVIGATIONと認識し、寝呆けて携帯を掴んだ。
「なに?」
「兄貴、兄貴、兄貴、兄貴」
 ああ、確かに加奈子の声だ。かなり忙しない。這いずりながら、聞く。
「どうした?」
「兄貴、助けて。兄貴――兄貴」
 ええ。何? 良く分からん。その辺に転がっていた、缶ビールの飲みくさしが手に当たる。多少残っていたので、ゴロンと仰向けになり、喉に上から叩き込んだ。
「加奈子だよな? 加奈子の声だし」
「兄貴!」
 ええと、ああ? 何してんだ? 加奈子。頭が全く働かない。空になった缶ビールを、無意識にその辺に投げ捨てて、テレビ台の中に在る、DVDプレイヤーを見た。
「あ、に、きぃ……」
「ちょっと待て、もう朝か?」
「助けて、よ」
「ああ、助けるよ」
 そう言って、俺は携帯を切った。先程見たDVDプレイヤーには、二時十八分と緑色に発光し、ぼやけた視界で認識した。
 いつの間にか出かけている加奈子に疑問を感じたが、喉が渇いたので、近くの自動販売機に飲み物でも買いに行ったんだろうと、勝手に解釈した。
 ひんやりと冷たいフローリングに、うつ伏せで転がる俺は、徐々に意識が戻ってきている事に気が付いた。
 左手に掴んでいた携帯が、又振動する。少し、そのままにしていたら、又……B’zの曲が鳴り出した。LADY NAVIGATIONだ。親指で通話ボタンを押し、右耳に当て、携帯を持ち替えた。
「お前、何処に居てんだ?」
「兄貴。どうして? どうして切るんだよ」
「切ったような、切ったよな? ええと」
 電話越しに、加奈子の泣き声が聞こえ出した。ひっく、ひっくと。
「本当に、ほんとうに、あにきぃぃ」
 とりあえず、脱ぎ散らかせたスーツを探し、着る事にする。『又、電話するから』と、加奈子に言い聞かせ、しわくちゃなトランクスを穿き、ヨレヨレの薄い藍色のシャツを着る。少々油が染み付くスラックスを腰に引っ掛けて、上着を羽織った。薄暗い中、テーブルに蹴躓きながらヨタヨタと、おぼつかない足取りで、玄関に向かった。


 ☆


 玄関のドアを開け、錆び付いた鉄の非常階段を下りながら、上着の両ポケットに手を入れる。右手に冷たい感触が在り、愛車の鍵を確認して――ホッとする。
 マンションという名のアパートを出る時に、マンションの入り口付近に停めて在る、加奈子の赤いママチャリが、見当たらなかった。アイツ、どこまで行ったんだ? 立体駐車場に向かう足取りを、少し早めた。
 表通りの街灯も消え、真っ暗な中。弱々しく光を放つ自動販売機が目に入り、立ち止まる。スラックスの後ろポケットに両手をやり、小銭を掴む。適当に投入口に小銭を放り込んで、つめたいペプシコーラのボタンを押した。
 自動販売機からペプシを取り出し、じゃらじゃらと、つり銭が落ちてきた。それを掴み、俺は走りながら、冷え切ったペプシの缶を額に当てる。
「コレで眼が冴えるか?」
 次に首元にペプシの缶をやり、俺の体温が一気に下がる。流石に眼が冴えわたってきた。目前に立体駐車場が姿を現してきて、飲み切った空き缶を握り締め、その辺りに放り投げて走る。
 立体駐車場の入り口で、音だけは立派な防犯解除の電子音を鳴らす。電波を受けたステージアの防犯システムは作動し、俺はステージアが在るスペースに着き、運転席のドアを開けた。
 カリッ。勢い付いて、隣に駐車して在った、一番下のクラスのマーチにピンホールが開く。俺の判断で気にならない程度だった。気にせず低く鈍いエンジン音を鳴らし、大きくハンドルを切る。そうして、いつものようにRにシフトを入れる。アクセルを踏みバックのまま、立体駐車場を後にした。
 左手でシャツの胸ポケットから携帯を取り出して、親指でカタカタと乱暴に扱い、着信履歴の加奈子に表示を合わせて、電話を掛ける。ルームミラーとサイドミラーのみで、表通りまで続く路地をバックで駆け抜ける。右手でハンドルを操作し、左手の携帯を右耳に当てた。
 俺のステージアを一旦表通りに路上駐車させて、加奈子が出るのを待った。
「兄貴。遅いよ、頼むよ」
「すまん。今の居る場所は何処だ? 迎えに行くわ」
 加奈子の掠れ切った重々しい、独り言のような呟きで、『ふじむら、さん』と聞こえた。
「そうか。解った」
 忘れていた車のライトを点灯させる。シフトを一番下まで引き込み、アクセルを踏みつけた……


 ☆


 加奈子がどうして藤村の家に居るのかは、安易に想像がつく為、置いておくとして。一体何があったというのだ。
 各信号の黄色の点滅を確認しながら、シフトをDに入れる。このペースだと、八分で市内に着くだろう。後部座席の足元に転がる、缶コーヒーを手探りで漁る。鈍いエンジン音は更に勢いを増して行く。
 探し出した缶コーヒーを適当に飲み、ドリンクホルダーに差した。俺は少し落ち着こうと、スラックスのポケットを上から叩く。膨らみを感じて、原型を留めていないCOOLボックスを取り出し、煙草を咥える。いつものように藤村から貰ったジッポーを、天井のサンバイザーから取り出してきて、煙草に火をつけた。
 何故加奈子が、藤村と俺が付き合っている事を知っているのか? 何故加奈子が、藤村の家から電話を掛けてくるのか? が、解らなかった。何か藤村の家で行われた事は解るが、その何かが解らない。
 話が終わったのなら、何も言わずに俺の側で裸になり、寝ていれば済む事だ。藤村の家から、あえて俺に電話をする必要性が感じられない。加奈子が、藤村と俺が付き合っているのを知っている事は、よくよく考えると……まあ、今日も勝手に俺の家に上がり込んでいるのだから、幾らでも機会はある。そういう事だろう。
 しかし。しかし、藤村の家で、何が?
 咥えた煙草を、先程の缶コーヒーに近づけ、灰を落とす。手をやって、運転席の窓を全開にする。そうして、煙草を左手から右手に持ち替えて、窓の外に出した。右手に風の抵抗を受けながら、藤村と加奈子の事を考えるが、シックリくる答えが、見付からず、俺を苛立させた。
 市内に入る辺りから、若干道が混み出してきた。藤村の家は、市内といっても少し中心部から離れていた為、渋滞に遭う事はない。シフトを2に合わせ、車道を走る、少なめの車を縫うように、俺の気持と同様、ステージアを急かした。



 5.
 車内のデジタル時計を見ると、二時四十七分。小奇麗にライトアップされた、無駄に仰々しい藤村のマンションに着く。
 ステージアを地下駐車場へ、とりあえず邪魔にならない位置にステージアを動かす。地下に向かう坂道を、ダンプしながら走らせて、エレベーター前右手の通路に、駐車中の車ギリギリ寄せるように操作する。
 一旦左にハンドルを切り、右にハンドルを切るポイントを遅らせて、アクセルをチョコンと踏んだ。ステージアのケツが少し滑り、駐車場内に甲高いタイヤの摩擦音が走る。外側のテールランプがガシャンと砕け割れて、衝撃音が駐車場内を駆け巡り、ステージアは駐車した。
 急いでシフトを跨ぎ、助手席に身体を動かせて、助手席側のドアを開ける。這うように車外に出た為、右足がシフトに引っ掛かり転げ落ちた。
 埃まみれになりながら身体を起こすと、割れ落ちた左テールランプが目に入る。『仕方が無いか……』藤村と加奈子の方が気になり、急いでエレベーターに向かって駆けた。
 ボタンを連打し、エレベーターが到着するまでの間。左後方が破損した、斜めに駐車するステージアを見つめる。鐘を突いたような音が鳴り響き、無言でエレベーターの中に乗り込んだ。
 すぐさま二十六階のボタンを押し、奥の壁にもたれ掛かる。室内に充満する、低く振動とも取れる音が、俺の苛立ちを増幅させた。更に鬱陶しいエレベーターは、背中越しに、俺の身体を振動させた。藤村の部屋の階に着くまでの間、数時間が経った思わせる程に、何かが俺に、重く圧し掛かった。
 又……鐘を突いたような、高い音が鳴り、俺は嫌な感じを噛み締めながら、通路に出た。
 深い藍色の絨毯を、一歩づつ踏み固めるように歩く。この嫌な感じは何だ? この重く圧し掛かる何か? は一体。俺は普段感じない、胸の奥がざわついて、不自然な感覚に身を包まれた。
 一歩、又一歩。そうして、藤村の部屋の前に着いた。『気にならない方が、おかしいな』と、独り言をボソッと一つ吐いて、インターフォンを押す。
 ノイズが乗る、濁った電子音が、静かな廊下に響き渡る。しかし反応は無い。無言で、再度インターフォンを押した。同じように、ノイズが乗る濁った電子音は、虚しく廊下を反射するだけだった。
 流石に悪い方向にしか考えられない俺は、変に落ち着き払って、少し冷たいドアノブを握る。ひねると、もう知らぬ存ぜぬを決め込む事は、不可能と感じ、一瞬躊躇したが……
「そういう訳にもいかんな」
 ふう。と、ため息を吐いて、ノブをひねり、ドアを引いた。



 6.
 藤村の部屋は、入って通路を二、三歩進むとリビングが在り、ドアを開けた俺は、まず明るいリビングが目に入った。
「加奈子、加奈子」
 下駄箱に手を置き、身体を支えながら、色落ちした革靴を脱ぎ、居るのかを問いかける。
「藤村」
 壁に右手をついて、ゆっくりリビングに向かう。リビングの奥に在るテレビが、うるさく音を発する。その中に、微かに聞き取れた、声とも取りづらい、弱々しい音がした。
「加奈子か?」
「あ、にぃ」
 右手のキッチン辺りから、加奈子と思える声がして、真っ暗なキッチンルームに入る。暗闇の中で、キッチンの入り口にハミ出すように置いて在った、木製の椅子に足を取られ体勢が崩れる。俺は流し台に手をやり、膝を付いた。
 顔を上げると冷蔵庫の床辺りに、滲むような橙色の光が見え隠れする。『加奈子か?』と、俺はその光に向かって、問いかける。すると……
 「兄貴。ごめん」
 と、加奈子の声が返ってきた。
 その光に近づくと、冷蔵庫にもたれ掛かり、小刻みに震える加奈子の姿が在る。胸元に、両手で携帯を握り締め、加奈子の震える手は、携帯のボタンを叩く事を止めなかった。
「大丈夫か?」
 しゃがみ込んで、加奈子の両肩を抑えて聞く。加奈子は無言で、俺の腰に手を回して抱きつく。『私は、大丈夫だ。でも』と、強い力で加奈子に――抱きつかれた。
 私は。加奈子は、そう言った。加奈子は――私はと。私は大丈夫だと。俺の胸に、顔を押し付ける加奈子を引き離し、『藤村はどうした?』と聞く。
「兄貴、あそこに」
 又、顔を胸に埋める加奈子の指差した先には、薄い黄色のアクリル板のテーブルが在った。長方形の厚いアクリル板の角に、赤黒い斑点の模様が見える。その模様は、その角にしかなかった。テーブルの真下に、スラリと細い見覚えのある脚が見えた。
「加奈子。お前、もしかして」
 その俺の言葉を聞いた加奈子は、身体の力が抜けて、崩れ落ちる。俺の足にしがみつく加奈子は、『私じゃあ、ない』と。そう言って泣き出す。眼鏡は、崩れ落ちた時に飛び、床を滑り、リビングの絨毯で止まった。
 とりあえず、このどうしようもない――最悪の状態に直面した事は、俺でも分かった。加奈子に再度確認する。そうしないと、次に進めない。放っておく訳でもなく、逃げ出す訳にもいかない俺は、何をすればいいのか? それを考えなければ、ならなかった。
 流石に、まあいいか。とはいかない。確かに、いきたいとは思うが、加奈子の手前、そういう訳にはいかなかった。
「加奈子。お前じゃあ、ないんだな?」
 足元でしがみつく加奈子に問いかけると、何度も頭を縦に振り、幾度もなく『兄貴』と繰り返した。
「解った。何とか……どうにか、するか」
 俺はしゃがみ、加奈子の両脇に手をやり、そっと身体を持ち上げて、俺に抱きつかせる。その体勢のまま、キッチンの入り口まで引きずるように歩き、無造作に置いて在った椅子に、加奈子を腰掛けさせた。
 絨毯に少し埋もれた眼鏡を取ろうと、前かがみになって眼鏡を掴み、身体を起こす。目の前で、色素が抜けた髪に赤く濁ったモノが、髪へ浸透するように染め広がっている。
 ――言葉を失うような、藤村の姿が在った。
「ああああ」
 一見して、すぐに手の施しようがない事に気付く程、藤村の状態は終わっていた。仰向きで、ぐにゃりと転がった後のように、左腕は背中に回っている。白の男物のパジャマは、背中から肩にかけて血液を吸い、こげ茶色に拡がり侵食していた。
 この初めて見る藤村の表情は、口を半分開けた舌が垂れ出している。眼は、どこか遠くを眺めているが、焦点は全く合っていなかった。俺は何も言えずに、発する言葉もなく。ただ、ただ身体ごと、目を逸らした。
 又、眼鏡が転がって行った。


 ☆


 俺は真っ暗なキッチンの中で立ち尽くす。
 何をしたらいいのか? 加奈子にどう言葉を掛けてやればいいのか? 分からないまま、時間だけが過ぎていく。
 腰から落ちるように床に寝そべり、右手を眼にやって、無理やり閉じさせた。
「兄貴。どうしよう?」
 加奈子の悲痛な声が、テレビにかき消されながら、俺に届く。まとまりきらない、頭の中で混乱して暴れまわる考えは、全て使えないモノだった。
 加奈子に何か言ってらやないと。それだけは何処か頭の中の片隅で、俺を責め立てる。もう、訳が分からなくなって、まともではない俺は、加奈子の事だけを考えて、言い聞かせた。
「俺が、俺が……藤村を、殺したんだ」
 口が意思を持ったように、動き出した。ある俺の何かが、勝手に加奈子に伝える。
「加奈子と藤村が、口論をしている時に俺が呼び出される。そうして、ヒステリーを起こした藤村が、加奈子を殺そうとして、包丁を持って襲い掛かる。丁度俺が、中に入ってきた」
 そこまで答えは出ると、後は簡単だった。信じがたいが、俺の腹の中で、既に出ていた答えだったのだろう。その方法しか、加奈子を助ける事は出来なかった。それ以外には、何も思い浮かばなかった。
「兄貴。私は、藤村さんに、兄貴と別れてくれと、言っただけだ」
 テレビにかき消されない、力強い声が、キッチンに走る。右手で眼を押さえ、寝そべる俺の身体に、暖かい柔らかいモノに締め付けられた。眼を開けると、加奈子は俺に覆い被さり、生暖かい涙が俺の頬をついた。加奈子の涙が、ぼたぼたと落ちてゆき、俺の頬と首元を熱くする。
 加奈子は精一杯の力で、俺の胸を拳で叩きつけた。右手で何度も、違う私は違うと、想いを伝えるように俺の胸を打つ。俺は、痛いぐらいに、気持が伝わってくるのが分かった。
「あにきぃ。信じてくれよ……藤村さんと、揉み合いになって、倒れたらこうなったんだ」
 俺は加奈子の身体に、両手を背中に回して抱き締めた。だが、この話を聞いて、信用して貰えるとは思えなかった。一瞬、何とかなるか? とも思ったが、俺が捕まった方が、話は早かった。
「お前の事は信じるが、本当の事は、加奈子と藤村しか分からない。解ったな?」
 叩くのを止めた加奈子は、『解ったよ、兄貴』と低く細い声で返事をして、よろけながら立ち上がった。俺はすぐに、スラックスのポケットに、手を入れる。寝そべりながら、全てのポケットをまさぐって、最後右後ろポケットからステージアの鍵を取り出し、加奈子に投げた。俺も床に手をついて、よろけて立ち上がる。加奈子の肩に鍵が当たると、それは床に落ちた。
「加奈子。お前は地下駐車場に停めて在る、ステージアの中で寝てろ。俺はこれから警察に電話するから」
 そう言うと、加奈子はしゃがみ込んで、ステージアの鍵を握り締める。『ああ』と、そう呟いて、玄関に向かった。
 俺は何か言わないと。と、衝動に駆られ、加奈子を呼び止めた。
「心配するな」
 流しに腰掛けて、俺はそう言った。足を止めた加奈子は、肩を上下に震わせ、悔しそうな声で、『私はいいんだ。兄貴が……』振り向かず呟いた。俺の返事を待たずして、玄関に着いて表に出た。



 7.
 流しから降りた俺は、辺りを見渡して例のモノを探す。が、見つからず。流し台、コンロ。驚く程、モノが置かれていない事に気付いた。ただ、ガラスのコップだけが二、三在るだけだった。
 俺は少しかがんで、流し台の引き出しを開ける。中に、探していた包丁が何本か在り、手前の包丁を取り出した。
 その使われた形跡がない包丁を、俺は左手に握る。そうして、右の掌に押し付けた。少し包丁を引く。だらだらと血が滲み出てきて、加奈子を庇い藤村が切りつけた包丁の傷が、掌に出来上がった。
「後は警察に、嘘の事情を説明するだけだな」
 そう俺に言い聞かせて、藤村が横たわる、リビングに向かう。右手から血液を垂れ流し、床に零れ落ち模様が広がった。
 とりあえず、テーブルの手前に在る、三人掛のソファーに座る。すぐに横になって、頭を肘置きに乗せた。アクリル板のテーブルの横から、朽ち果てた藤村と眼が合った。右足でテーブルを押しやって、藤村を隠す――見えないようにした。
 上着のポケットに両手を通す。左手に携帯が当たり、取り出して見る。警察に電話をしようと、左の親指でそのままボタンに触れるが、震えて押せない。右親指で、上から無理やり左親指ごと押し付けた。
 携帯の液晶は、三時を表示していた。
「すみません。彼女が死んでしまいました」
 声は上ずり、真っ白になった頭を振る。警察に、藤村の住所を伝える事しか、俺は出来なかった。何度も藤村の住所を、携帯に吐きつける。『分かりました。今から向かわせます』の声を聞いて、すぐに電話を切った。
 ソファーから、だらりと携帯を持つ右腕を垂らし、それが掌から抜け落ちた。携帯は絨毯を跳ねて進んでゆき、テーブルの下に落ちていた、眼鏡に当たり止まった。
「加奈子」
 眼鏡と携帯の側に、藤村のモノと思える日記帳を見つけた。先程藤村を隠そうと、テーブルを動かした時に、上から落ちてきたのであろう。加奈子と藤村の事情が気になり、日記帳を取ろうと俺はソファーから転げた。
 藤村が視界に入り、バツの悪い思いがした。俺は藤村を見ないようにして右手を伸ばし、眼鏡、携帯、日記帳をこちらに引きずり込む。そのまま横たわる体勢で、日記帳をパラパラとめくり、ふと手が止まるページがあった。
 今から丁度半年前。加奈子が家出をし、実家に帰った日の事だった。初めて加奈子を抱いた日で、どちらかというと、親父に散々小言を聞かされた事が印象深い。
 その日記帳のページには……『無言電話が酷い』と、途中からボールペンのインクが切れて、文字の跡が残っていた。


 ☆


 テーブルを介して、終わっている藤村が居る。仰向きに佇む俺は、もう、吸いきった白とも言えないパジャマを見ても、何も思わなくなっていた。今はただ、警察が来るのを待つだけになる。
 うるさく、リビングを駆け巡るテレビの、やけに大きい音声が耳についた。流石にそっとして置いてくれよ。と、そう思い、テーブルに置いて在るリモコンで、テレビのスイッチを切る。
 再度、藤村の日記帳を眺めても、気になったページ以降は普通の日記帳だった。ただ、何かと『無言電話が』と、書き込まれていたが、特別真新しい事が書かれている訳でもなかった。
「加奈子……」
 絨毯に少し埋もれた携帯が、もぞもぞと動き出した。手に届く範囲に置いておいた為、右手をやる。数回、振動した後に、LADY NAVIGATIONの電子音が鳴り出した。どうしたんだ?
 俺は急いで手をやると、人差し指の爪が携帯に当たり、絨毯を滑りながら、テーブルの脚にぶつかる。
 その、衝撃で、携帯が通話状態になった。
 『ごめん』
「何がだよ」
 咄嗟に俺は反応し、気が付くと既に叫んでいた。
 電話越しに、パトカーのサイレンが聞こえる。又、電話から『兄貴。ごめん』と、声が聞こえた。その後に、密閉性の高いステージアのドアが閉まる音がして、走るような足音がした。足音が共鳴して、地下駐車場と思われる場所に鳴り響いて、その音と共に電話が切れる。最後に、加奈子の荒い息が、リビング中に流れた。
「くそぅ」
 何がなんだか分からなく――解らない事になっていた。
 もう俺の中で、事故なのかどうなのか? 解っていた事は、俺は警察に捕まる事が出来ない事と、無言電話に対しての、藤村のSOSに、気付いてやる事が出来なかった事だ。
 俺はこうして、警察と加奈子が来るまで、待つ事しか出来ない。全て俺が悪い訳じゃないが、全て俺のせいでもある。何をする訳でもなく、何も考えずぼうっとする俺が、全ての元凶だった気がした。ただ流されるように、物事が進んだだけ……
 だが、どうかしようとも、考えられなかった。
 力が入らない右手で携帯と眼鏡と掴み、上着のポケットに入れる。そうして俺は、口を瞑り、奥歯を噛みしめた。
 だらけ切った身体を起こして、ソファーに崩れるように座る。深く沈むソファーに身体を取られふらつくが、左手を肘置きにやり、支えて持ち堪えた。だが奥歯で、口の内側を切り、錆びつく鉄の味がする。
 ――加奈子が作った、苦い野菜炒めと、同じ後味がする。
 俺は、言葉が出なかった。
 背中越しに、玄関のドアノブがひねられる音がして、勢いよくドアが開けらる。首だけを玄関先に向けると、数人の人影が入ってきていた。その人影の向こうに、二人程脇に連れた、加奈子が居た。
「加奈子」
「兄貴」
 そう会話を交わして、二人の人影に連れられて、部屋の中に入ってくる。加奈子の姿を見るのは、これが最後だった。



 8.
 あれから数日後、俺は会社を辞めた。実際同僚が死んでいて、犯人は加奈子になっていた為だ。正直未だ事故なのか? どうなのかが分からないが、犯人の兄だからと、何かと会社で噂される。かなり鬱陶しくなってきて、会社に行くのを辞める事にした。
 家の近くに在る、古ぼけた良い雰囲気の店で働く事にして、難なく働けるようになる。そのスーパーのようなコンビニのような店で、仕事を終えて帰ろうとした時に、ふと……
 野菜を買って帰る事にした。
 日は落ちて、街灯がぼやけて光る表通りを一人で歩く。二分程して、一応赤いレンガの、一応マンションと呼ぶ建物に着いた。あいかわらず錆び付いた非常階段を上がり、部屋に着く。少し小汚くなった部屋を見ながら、流し台に向かった。
「何年ぶりだろうか?」
 何が何処に在るかが分からなく、四苦八苦し、どうにかフライパンを火にかけた。
 俺の中で、何かが激しく揺れ動く。
「愛しているから……」
 加奈子呟いた最後の言葉が、痛々しく俺を突いた。その意味の推測は付いたが、いつまでも確信には変わらない。
 パチパチと、フライパンから何かが弾ける音がして、油を探すが中々見つからない。諦めて左足を伸ばし、冷蔵庫を開けた。フライパンを火にかけたまま、冷蔵庫の中を物色し、中から固まりきったバターを取り出した。
 半年前に家出をしてきた加奈子が、買っていたような気がして。探してみるものだ。
 そうして、適当に野菜を手でちぎり、その辺りに置くと、フライパンから真っ白な煙が立ち上がる。結構な量の、長方形の形をしたバターを、フライパンに放り込んだ。一瞬にしてバターは溶けて、真っ黒に染まっていく。すぐさま野菜を投入し、その野菜で蓋をする形になった。
 たまたま、フライヤーらきしモノを見付け、すぐにかき回す。まあ、もの凄く不味そうだが、食えない事はないだろうと思い、火を消した。
 あの日、苦い野菜炒めを食べ終えた皿を思い出し、テーブルに向かう。いつものようにテレビのスイッチを入れて、FCのスイッチをONする。また同じようにゲームを始めて、当たり前のようにテレビのスイッチを切った。俺は右手に食べ終えた皿を持ち、流し台で野菜炒め的なモノを、その皿に入れた。
 余りにも――目に余る程に油まみれだった為、先程のフライヤーと皿を挟み油を搾り出して、流しの排水溝に油を流した。
 その間。あの日を思い出す。
 『加奈子、お前……なのか?』
 『兄貴は信じてくれると、思っていたのに』
 『じゃあ、なんで警察に?』
 『兄貴の事、愛しているから……』
 俺は、あの日交わした加奈子との会話を、鮮明に覚えていた。
 油を絞りきった野菜炒めを流しの横に置いて、フライヤーを流しに投げ入れた。鉄が擦れる音がして、俺はテーブルに向かう。テーブルに野菜炒めを置いて、安物のパイプベッドにもたれ掛かるように、あぐらをかいた。
 テーブルを俺に引き寄せて野菜炒めを食おうと思うが、箸が無い事に気付く。
「在ったよな」
 苦い野菜炒めを思い出し、テーブルの右手にドンブリの縁で両端を支えていた箸を見つけ、それを取った。
 野菜炒めを食おうとしたが、何故か箸を持つ右手が止まる。少し重い沈黙が漂い、箸をテーブルに置いた。
「事故かもしれない……」
 ここ数日、俺の中で揺れ動く何かがあった。心の何処かで引っかかる言葉が、『愛しているから……』だった。――この加奈子の言葉だ。
「俺と同じく。加奈子は、俺を助ける為に」
 そう言うと俺は、胸が締め付けられる思いがした。ドンドンと胸を叩きつけられる、あの感覚。確信には変わらないが、加奈子の事を信じようと想い、野菜炒めに箸をつけた。
「加奈子」
 自然と眼から涙が溢れ出し、頬をつたい首元に流れた。又、ドンドンと胸を打ちつけられる感覚が巡り、加奈子の熱い涙の感触が、全身を覆いつくす。
 顔をうつ伏せて、静かに野菜炒めを口に入れた。
「うう、うううう」
 俺は、思い切り吐いた。
 野菜が、食道を通る事を拒絶して、足元に吐き出された。


 ☆


 するハズのない、あの時味わった、あの、同じ後味がする。苦くもない、ただの野菜炒めから、錆びついた鉄の味がして。
 咽び返りながら顔を上げる。だらだらと流れ出した胃液を拭く事もなく、茶色のボストンバックを見つめた。
 そのボストンバックの上には、『兄貴へ』と書かれたルーズリーフが在り。そのルーズリーフの下には、コットン地の下着が綺麗に畳んで在った。
 「加奈子」
 その横には……
 俺が置いた、加奈子の眼鏡が在った。

  1. 2006/09/04(月) 00:00:17|
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