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こちらは、主に素直でクールな女性の小説を置いております。おもいっきし過疎ってます
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陽が落ちるまで

1.
「はあはあはあ……」
 俺は何で走っているんだ? 少し立ち止まり息が上がる。そこまでして走る理由があるからだと、自分に言い聞かせ、膝とモモを叩き――駆け出す。
「ちくしょおっ」
 駆け抜ける商店街。ビルとビルとの合間を縫うように突き進む路地。落ちようとする太陽に照らされて、オレンジ掛かった朱に染まっていく街並み。その中を追い続けて、一つの影が建物に向かって吸い込まれて行く。
「待てよ、おらぁ」
 走る女の子の影を踏めない俺は、背筋を伸ばし全力で駆けて、前方から駅が飛び込んできた。
「――言ってんだろ! 美紅――」
 駅の改札口を通り過ぎざま、ジャージのポケットから五百円玉を掴んで、駅員に投げつけた。そのままゲートを飛び越えて、美紅の後を追う。
「ばかやろぉ! 美紅す――」
 ホームに向かって階段を駆け上がる美紅の後ろ姿を見つめながら、俺は改札口を飛び越えた。
 夕方の駅は人で溢れ肩と肩がぶつかるが、お構いなしに追いかけ階段を登る。何度もつまづきながら人にぶつかって、気にせず走り抜きホームに辿り着いた。
「話を聞けよ! にゃろっ」
 大声で吼えるが丁度着いた電車に乗り込む美紅は、肩を落とし身体全てで息をしていた。俺は全力でホームを突っ切った。出発のサイレンが鳴り響く中、人ごみをかき分けて電車へ向かう。閉まり始めたドアの隙間に体を押し込んで、走り出した電車に転がり込む。
 そうして今――海に向かう電車に居る――
「美紅……諦めろって」
 海に向かう快速電車は当分停車する事はなく、俺は満席を横目で確認し、座り込んで背中をドアに押し当てた。
「峡太になにがわかるの!」
 美紅も背中を押し当てていたドアを、ズルズルと情けない顔をしながら滑らせて、ぐったりとヘタり込んだ
「分からないよ。でも、お前が嫌な思いをするのが分かるから……だから」
「先生のこと考えると、どうしたらいいか、わからないのぉ」
 そう言って、美紅はうずくまり泣き出した。俺はどうしてやればいいのか分からずに、声を掛けてやる事も肩を叩いてやる事も出来ず。……ただ呆然と流れ去る、窓の外に広がる景色を眺めていた。


 ☆


 美紅――同じ陸上部に所属する同級生。共に400メートルトラック。中学の頃に陸上をやっていたから、そのまま高校も陸上部に入部。その時初めて美紅と出会って一目惚れ、想いを持ちながら一緒に走っていた。
 俺はコレといって何もアプローチを掛ける事も無く、ただ時間だけが流れて二年になった。
 美紅と出会った当初は、幼く可愛らしい面持ちでコロコロと駆け回っていたが、去年の夏休み明けから急に大人びてきて、俺をより一層ドキドキと、ときめかせた。
 身長は155センチ体重は解らない。ただスレンダーな為そんなに重くないとは思う。髪は天然の亜麻色で肩下まで髪は掛かり、陽に当たると抜けて赤く髪色を変える。眼は黒く大きく見開き、ぷっくらした頬。身体の出るところは出て締まる所は締まってと、そんな――出来ればすぐにでも抱きしめたい女の子。
 でも、今年の春から落ち着いたというか、女性になった美紅。一体何があったのか? その時には全く想像が付かなかったけれど、ホンの二週間前に、俺も含めて学校中に知れ渡ってしまう。
 美紅の女性になった理由よりも、俺は彼女が心配でならなかった。そのぐらい衝撃的な事件が起きてしまったのだから。


 ☆


「なあ少し落ち着いたか? 美紅」
 揺れる電車の中で、呆然と座り込む俺と美紅。言葉を選びながら様子を伺う。
「ねえ峡太ぁ。私の事が、すき、なの?」
「え?」
 好きもクソも俺はアノ時叫んでいたのに、ホームに向かって美紅を追い駆けていた、五百円玉を投げつけたアノ時。
「聞こえてなかったのか? お前……」
「え?」
 お互いに噛み合わない会話は、気持も交差せずネジレて、電車は海に向かって着実に進む。快速電車は、次の停車駅まで何食わぬ顔で、早々に速度を上げてゆく。――俺と美紅の心は、その速度についていけなかった。
 混み合った車内で汗だくの俺たちは軽く息をあげて、二人ドアにもたれ掛かり、足を放り出して佇んでいる。意思疎通がままならない中で、お互いに見つめ合い、そのまま困惑する。美紅の肩からは湯気が立ち込め、夏服のブラウスは透けて、亜麻色の前髪から汗が垂れ落ちている。
「俺がココに居るんだから、分かるだろ?」
 何かしらの好意を持っていないと、俺はココには居ない。あの事件があってから、鮨詰めの電車が駅に着いて、降りる乗客に無理やり背中押しされるほど、美紅に近づく事となり、今日無我夢中で追いかけていた。途中何度も罵声を浴びせ合って、俺たちは走り続けた。
「あ……そっか、そうだよね。峡太ぁ、ごめん」
 恥かしそうに体育座りに足を組み替えて、美紅はうずくまる。チラリと美紅は俺を覗くが、目を合わさないように視線を逸らした。俺も同じくして体育座りをして、天井を見上げながら呆ける。
 レールの段差は滑車を叩いて、車両全体を揺れ動かせる。それが美紅の気持ちなのか俺の気持ちなのかは、分からないまま――先の景色から、オレンジ色の砂浜に覆い尽くされた水溜りと、夕日によって朱に交じり合った海が飛び込んできた。
「美紅。とりあえず降りよう」
「あ、うん」
 不意を突かれたように眼が点になった美紅は、慌てて返事をする。車内アナウンスからは――次は鴻池浜公園、鴻池浜……――車内に放送が駆け巡っていた。


「鴻池浜だってさっ、」
「池なのか浜なのか分からないね」


 美紅は、もう落ち着いて大丈夫だと思う、こういう冗談が言えるのだから。
 俺は美紅の肩をポンと叩いて立ち上がる。ケツに付いたチリを払って横を見ると、美紅もグレイのブロックプリーツスカートをポンポンと叩きながら、窓の外を覗かせる。
「どうする? これから」
 俺も外の風景を覗かせながら聞く。
「そうだね、海……行こうか」
 美紅の吐息は窓にかかって曇らせていた。汗ばんだ美紅に高揚して全てを奪われながら、行くか。と、答えた。



 2.
 二週間前。――あの事件は衝撃的だった。
 何も特別な事は無い晴れた平日、学校に着けば生徒達は校庭でざわめき立っていた。普段は誰も見ない掲示板の前で、人が溢れ返っていた。部活の先輩に声を掛けられ、面白いモノが見れる。と言われ、縫うように集まる学生をかき分けて、掲示板の前に立った。先輩にあのニヤケた笑顔に俺は気付かず、素直に掲示板に貼り出された少し大き目のキャンパスに目をやった。
「おい……なんだコレ?」
 人の熱気と生暖かい夏の風が吹きすさみ、じとっとしたサウナ上がりの汗を、首筋から背中にかけて垂れ流すような……嫌な汗が流れ、真逆に俺を凍らせる。
「美紅、お前ッ」
 目前にデカデカと貼り出された水彩画は――艶っぽい美紅の、線の細い裸体だった。
 とっさに取った行動は、思い切り美紅のキャンパスをひっぺ返して、部室に駆ける事だった。信じられない気持ちを胸に、俺はひたすら駆ける事しか出来なかった。
 なんで? なんで? そう何度も呟きながら廊下を抜ける。ヌルイ風に乗った土ぼこりは俺の眼を打ち付けて、自然と涙が流れ出す。廊下とグラウンドの段差を飛んで、蒸しきった用具臭い部室に雪崩れ込んだ。
 高飛び用の深いマットに身体をぶつけて、大の字に寝転がる。
「クソッ」
 薄暗くカビ臭い部室は蒸し暑く、天井近くの窓から差し込む光に反射して、ホコリが舞い散っているのが分かった。
「あーくそうっ! なん……なっ」
 ボロボロと流れ出す涙が耳をつたって、首元に溜まっていく。ゴシゴシと腕で擦りつけて、眼を覆いすすり泣いた。
 一人やり切れない思いで佇んでいたら、不意にドアが開く。逆光の中からハアハアと息を切らせて、肩を震わせる先生が立っていた。すぐに床に手を突いて、かすれたような声で俺を呼びかける。
「峡太、すまんな……」
「せ、んせい……」
 這って先生はマットに近づいて、俺の横に転がる。荒い息を吐いてマットを揺らす。先生の震える肩が収まるまで無言で時間が過ぎ、ハアハアと、部室に充満するホコリを揺らし続けた。――もやもやした気持ち、出ない言葉、先生との共通点は、キャンパスに描かれた美紅――ただ一つだけだった。
「どういうことか教えてくれよ、先生」
「ああ、そうだよな。俺が何しにココに来たか分からんからな」
「ああ? 先生なにゆってんの?」
 落ち着き払っている先生にムカついて、怒りが込み上げてくる。お前が貼り出したのか、何か事故があったのかは分からなかったけれど、美紅を傷つけた。その一点だけが俺を苛立たせる。
 黒髪でセンターに分けた先生は美術教諭。細身で威厳は無く、おっとりとしている。生徒達によくからかわれるが、笑顔で答えて人気があった。その先生が、まさかこんな事になるなんて……思いもよらない事だった。
 俺も先生が好きだったし、美紅も先生が好きだった。人気者だったから、もしかすると先生の事が好きな生徒が嫉妬して、貼り付けたのかも知れない。なんだよ、クソッ! 苛立ちが募るばかりだ。
 先生と俺は、寝転がったまま話しを続ける。
「峡太聞いてくれ、俺は転勤する事にした。美紅を頼むな」
「だから何言ってんだよ!」
 美紅の裸の絵が貼り出されて、先生は転勤する。ふざけるなよ……
 あまりの身勝手さに、先生の襟元を掴んでマットへ何度も叩きつける。
「何好き勝手言ってんだよ先生! アンタが美紅を守らなきゃ、誰が守ってやるんだよっ」
 何なんだよコレ、意味が分かんねえ。
「峡太。お前が守ってやってくれ。俺にはもう資格がない」
「資格がないだぁ、コノッ」
 掴んでいた襟元を持ち上げて、思いっきり殴り倒す! クソヤロウの頬に、一撃を加えて吹っ飛んだ。奥に置いてあったハードルに突っ込んで、なぎ倒しながら砕け落ちる。
「先生が美紅を描きたいって言ったんだろっ。美紅を脱がしてヤルだけヤって、問題起きたら逃げるのかよ! 責任持てよ、先生が……お前が守ってやらないと、美紅は一人じゃねぇか」
「お前が居るだろ。美紅の事を守れるのは、お前しか居ない」
 ヨレヨレとハードルに手を掛けて立ち上がる先生は、口から血が流れ出して眼鏡にヒビが入っている。足を引きずるように歩いて俺に近づく。ぶつかった衝撃でホコリと石灰が巻き上がり、辺りに立ち込めていた。
 俺が、俺が美紅を守る……
「峡太ぁ、美紅の事好きなんだろ? 美紅の中でお前が一番近い存在だ。お前しか守ってやれる人間はいない」
 俺は先生の言葉に揺れる。
「峡太……」
 石灰と土ぼこりに塗れた先生は、マットに足を掛けてにじりよる。呆然と立ち尽くす俺の襟を掴む先生は、ふらふらになりながらも真剣な眼差しで、気持ちを浴びせる。
「コレが事故でも確信でも、結果起きた事だ。謝って済む問題じゃあない。誰かが責任を取らなきゃなんないんだ。俺か? 美紅か? どっちなんだ! 言ってみろっ」
 そのまま先生に押され壁に背中を叩きつけられる。掴んだ襟を強引に壁に押し込まれた。部室は何度も衝撃を受け続け、ホコリとカビが暴れ続けた。
「先生……」
「俺だろ! 責任を取るのは俺だろっ峡太ぁ。後はお前が守れ! 俺じゃあないお前が守れ、いいな」
 先生の熱い想いは俺の胸を貫いた。投槍の先が心臓を抉るように、重い言葉が突き刺さった。
「ああ、分かったよ先生」
 襟を放されて俺はマットに沈み込んだ。先生も疲れ果てたようにマットに転がる。お互いに息を切らせながら、天井を眺める事になる。そうして、何故か笑いが込み上げてきた。先生も同じだった。
「先生強いのな、普段は弱そうなのに」
「コレが限界だって、お前の方がよっぽど強いよ」
 息を切らせ笑い声が響き渡り、ごほごほと、むせび返る。俺は会議があるから……と、先生は辺りの用具に手を掛けて、弱々しくドアに向かう。俺も立ち上がりマットに足を取られながら、壁に背を傾けて声を掛けた。
「先生、教えてくれよ。美紅の事、美紅の事どうだったんだよ」
 ドアを開け逆光の中で、先生は背中越しに――――
「喧嘩もそうだが、まあ、お前には負けるよ」
 そう言って手を振りながら、じゃあな。と、言葉を残して去っていった。俺はマットから転がり落ちた美紅の絵を拾いあげ、ほとぼりが冷めるまで放心状態になって、美紅の事を考えていた。



 3.
 その2週間後の今日――先生が転勤になる。
 なにやらゴタゴタがあって、取り立てて朝礼で生徒達に挨拶をする訳でもなく、ひっそりと学校を後にするみたいだった。美紅はその事を知っている。ゴタゴタは美紅の両親を巻き込んで行われた様子で、美紅が強く反発して転勤が延びたらしい。
 昨日先生から電話が掛かってきて、又美紅を頼む。と伝言される。俺は、先生も頑張れよ。と言って、電話を切った。短い電話だったけど、十分にお互いの意思が通じ合い、それ以上何も言う事は無かった。いや、何も言えなかった。
 先生には先生の事情も覚悟も、大人の常識もある。電話越しに聞いた先生の、最後の言葉。
『俺に着いて来るより、お前と居た方が夢も希望もある。俺は美紅の為に引く、後は任せた』
 正直、何が正解で何が間違いなのかは分からない。それが美紅にとって幸せなのか不幸なのかは、美紅が決める事だ。今なら先生を追いかける事が、幸せなのかも知れない。
 でも先生は降りた、いや引いた。
 後は俺が、どれだけ美紅の悲しみ憤りを和らげる事が出来るのか? 後は俺が、どれだけ頑張れるのかが――今俺に出来る事……ただ、それだけだ。
 そうして朝、俺は早めに学校に来て、美紅を待つ。


 ☆


 静まり返る教室の中で、俺は一人、席に着く。正面を見ると、黒板の上にある時計が刻一刻と秒針を動かす。その秒針がカチカチと一周して、確実に刻み込まれる音が俺を打つ。その耳障りな音は教室を渡って鳴り響き、やけに大きく聞こえた。
「あれ? 峡太、今日は早いよね」
 ガタンとドアが壁にぶつかる音が聞こえ、一番逢いたかった美紅が教室に入ってくる。美紅は今日先生が転勤する事を知らないみたいだ――知っていたら既に追いかけているハズ。俺は、良し。と、机の下でコブシを握り締めた。
「たまたま早く起きたから来てみたけど、人居ねぇのな」
「そうだね。いつもこんな感じだよ」
 へんなの? と、言いたそうにして小首を傾げる美紅は席に着いて、ぼうっと何も書かれていない黒板を見つめながら、溜め息を吐いていた。気になって、俺は美紅に声を掛けた。ぼそぼそと、大丈夫か……? と。
 すると美紅は、聞き流しているような素振りをみせシャーペンを回しながら、えへへ。そう答えた。いつもの、眼を大きく見開いて大口を開けて笑う美紅と違っていて、曇りがちになる微笑は、俺の不安を駆り立てる。
「なあ」
 俺はとりあえず、さらに声を掛けてみる。
「ん?」
 不思議そうに体を向ける美紅の微笑は、少し強張って見えた。……それでも俺は何も言えず、一歩踏み出せない気持ちで胸を締め付けられ、ふてくされて。
「やっぱり眠い。寝るわ」
 と、俺は――逃げた。
 腕の中に、頭を埋めて寝る体勢に入った俺の側で、カラカラカラ。シャーペンが床を転がる音が聞こえ、回し損ねたと思われる美紅が、あほ。と、微かに聞こえたような気がした。美紅の放った曖昧な言葉が、うやむやとした気持ちを、より揺さ振らせる。
「なあ……」
 俺は又、声を掛ける。
「なによ」
 何故か少し怒ったような、それでいて困ったような、そんな気持ちの読めない美紅の声が、心に響く。俺は今を壊せずに、壊す事が怖いと思い――なんもない。と言う事が、俺の出来る事の限界だった。
 美紅は椅子を動かす音を立てながら、そう。と答えた。美紅の放った椅子の振動が、俺を小突いて責め立てる……それは、安に被害妄想かも知れないけれど。ただ――この微妙な距離感と負えないリスクに、自分自身嫌気が差した――
 後はクラスメイトが登校してきて、二人の時間は過ぎ去り、放課後迄あまり話す事は無かった。



 4.
『――鴻池浜公園でございます。お降りの際は……』
 と、アナウンスが下車を催促して、電車を降りた。そうして俺たちは海に向かう。
 ああだこうだ言いながら砂浜までじゃれ合って、風を感じとりながら海を眺めている。美紅は手をおデコに持っていって、広がる地平線を見渡していた。
「峡太ぁ、海だよ! うみぃ」
「ああ、そうだな。美紅、もう大丈夫か?」
 気になって聞いてみると、美紅は砂浜にしゃがみ込んで、俺を見上げる。
「さあ、ね……今だけかも?」
 くしゃっとした苦笑を浮かべてゴロンと背中から寝転がり、何とも言えない顔で悔しそうにする。もう好きにしてよ! と言いそうなほど、美紅は手足を広げてダレていた。
 俺は傍らに座り、夕日が沈む地平線を眺める。
 赤く染まった海は、波がそよ風に乗り波打ち、砂浜は風に流されて、俺たちと同じようにジャレ合っている。潮の香りは俺たちを包んで離さず、夕日はいつもと変わらずに、当たり前のように静かに沈んでゆく。
「ねえ、峡太ぁ……今日はありがと。ねっ」
「……いいよ。結局何にもしてないし、ねぇ」
 俺も雪崩れるように大きく手を上げて、転がり込んだ。ダレるように顔を美紅の方へやると、無理をして奥歯を噛みしめ、笑みを作る姿がある。
「朝ね、朝早く居てくれてありがと……いなかったらね、私行ってたと思うの」
「どゆこと?」
 俺のカッターシャツの裾を握る美紅は、少し震えながら話を続ける。
「実は今日、知ってたんだ。先生が転勤する事……」
「美紅?」
「あのね――」
 その瞬間、風が吹いた。
「きゃっ」
 あまりにも風が強く、美紅は砂混じりの突風に吹かれ、転がるように俺に寄り添った。渦を巻くように風が通り過ぎ、俺と美紅は――二人重なり合う。
 美紅は俺の腕に抱かれて、亜麻色の髪は俺の頬を撫で、暖かい吐息が耳を打った。
「峡太ぁ」
「美紅」
 お互いに、おデコをぶつけて見つめ合う。お互いの鼓動が肌越しに伝え、ドクンドクンとシンクロしてゆく。波の囁き、周りを揺らす風……全てが掻き消されて、胸を伝う鼓動だけが、俺たちを打ち続けた。
 この一瞬が、永遠とも思えるほどに時間が歪む。美紅のまばたきが遅く感じ、鼓動がゆうっくり全身に渡る。
 美紅は朝、俺が教室に居たから行かなかった。美紅は俺を待っていた? もしかして……俺に止めて欲しかった? 先生を追いかける事を、止めて欲しかった?
 だから朝、笑顔が曇っていたんだ。少し困ったような声もそうだ――でも俺は逃げた。
 だから美紅は、学校が終ってすぐに先生を追うと言って走り出した。俺にそう言って走ったんだ。
 だから俺は追いかけた。何度も気持ちをぶつけ合って、駅へと走った。美紅は最後まで、俺に止めて欲しかったんだ。
 美紅は最後まで迷っていた。先生が好きだけれど、俺に止めて欲しい。たぶん……俺の事も気になっている、と。
 だから……
「美紅?」
「うん……」
 ココで思いっきり抱きしめてキスする事も出来るけど、そんな事は俺には出来ない。今ソレをすると、ただの卑怯者だ。弱っている美紅を、自分のモノするのは簡単だけれど、それじゃあ俺が納得しない。先生と約束した――美紅を守ると。
「立とっか? 美紅」
「いいの?」
 肌越しに響かせて、直接気持ちをぶつけてくる。未だ両手を回し、強く壊れるほど抱きしめきれない俺は、美紅の肩を掴む。このままだと、欲望に負けて無茶苦茶にしてしまいそうだったから、美紅に。
「その時が来たら、絶対するから」
 と言って、美紅の肩を押し出した。そうしたら、ふーん強がり……。美紅は久しぶりに見る笑顔で、立ち上がった。俺も静かに立ち上がる。
「なあ、勝負しないか?」
 二人して、砂まみれになった制服を払いながら切り出した。
「勝負ぅ?」
 同じくして制服を払いながら美紅が聞く。キョトンとして、砂を払い落としていた。
 俺は走り出し大きな石がある所まで行って、そこにつま先で線を引いた。美紅の立っている場所から、大体約400メートル。俺たちの種目だ。海まで線を一杯引いて、大声で叫ぶ。
「みくぅ! ソコからココまで大体400だ。勝ったら俺と付き合ってくれよ! 負けたら――」
 どうする? 先生の所にでも行けって言うのか? 言ってもいいけれど、美紅に何のメリットがあるんだろうか……
 俺と勝負して負けたら俺と付き合って、勝ったら先生を追いかける。でも、俺に止めて欲しかった美紅はどうする。意地になって、先生の所に行ってしまうかも知れない。このまま――何事もなく告白したら、ソレでうまく行くかも知れない。そうなると、この勝負に何の意味があるんだろか? 
 怖い。モーゼの十戒の如く海が割れ、少しでもミスをすると海に飲み込まれてしまいそうで、美紅にふれるのが、本当に怖い。
 おそるおそる目線を上げると、美紅は口に手を持ってきて何かを叫んでいた。何か困ったような、仕方ないような、そんな困惑した表情を浮かべ、吼えていた。
 浜風に乗って、透き通るような柔らかな声を俺に運んでくる。意識しないと、そのまま過ぎ去ってしまいそうな、弱々しい音。あほーあほー峡太のあほー。美紅の声だ。
「負けたら……先生の所に行け! 駄目だったら、俺がちゃんと拾ってやるからぁ」
 ムスッとした様子で、美紅はかんしゃくを起こしていた。口を瞑らせて、俺をジッと見据える。
 夕日の中に浸透していく美紅は、亜麻色から朱に髪を紛れ、汚れた白いシャツも……朱に滲んでいく。海から流れ込む潮風が美紅に纏わりついて、短めのスカートを遊ばせた。
 『もう』と聞こえそうな、風にからかわれて髪をかきあげる美紅の仕草に、迷いごと気持ちを持って行かれた……
 俺が決める。俺の意思で、俺の実力で美紅を止める。先生の所に行っても突き放されるだけだ。とか、美紅が迷っているだとか、そんな事は関係ない。俺が美紅を行かせない。400走って、俺の力で美紅を守ってみせる。
 俺は地に――砂浜にシッカリと足を埋め、静かに美紅の元へ一歩、又一歩と進める。俺の真剣な眼差しに気付いた美紅は、今の気持ちを隠すように笑顔で手を振っていた。


 ☆


 淡く包み込むように、夕日が俺たちを照らす。徐々に海へと沈んでいく夕日は、チューブを直接キャンパスに塗り重ねたような赤が、地平線を伸びてゆく。薄暗くなっていく中で、俺たちはしゃがみ込んでいた。お互い砂浜に手をついて膝を立て、クラウチングスタートの体勢のまま――その時を待つ。
「歌が流れたらスタートな。美紅、分かったか?」
「ん、わかった」
 鴻池浜公園は十時と二時と六時に歌が流れ出す。今は五時五十八分。そこまで来ている始まりに、俺たちは語り合う。
「なあ、どうして転勤の事知ってたんだ?」
「んっとね、先生が教えてくれたんだ……あと、峡太が先生とケンカしたことも」
「えっ?」
 慌てて俺は美紅に視線を向けた。前を真っ直ぐに見つめながら、美紅は眉間にシワを寄せていた。いつも見せるスタート前の美紅の姿だ。
「おま、え……どこまで知ってるんだよ」
「どこまでって、……ぜんぶかな?」
 おい、どういう事だよ先生。アンタそれでいいのかよ、頭が混乱する。先生の気持ちも美紅の気持ちも、全てが俺の中で空回りする。
 あれ? 美紅は、美紅はどっちが好きなんだ。先生……アンタ何美紅に全部話してんだよっ、何格好つけてんだよぉ。先生の気持ち知っているのに、そこまでされて素直によろこべるかぁ!
 パニックに陥り、訳が分からなくなっていると――不意に曲が流れ出した。
「あんの、センター分けがぁ!」
 美紅と俺、先に引かれたゴールに向かって、同時に駆け出した。
「あははははは」
 センター分けと聞いた美紅は、いつもの大口を開けて笑いながら先行する。軽い身体は、あまり足を砂に取られる事は少なく、滑るようにゴールに向かう。俺は足が砂にめり込み、ザッシュザッシュと無理矢理脚を前に出して進んでいく。
「お前も笑ってんじゃねーよ」
「ひゃああぁ」
 俺の声で振り向きざま、美紅は足を取られコケた。ドスンと砂を撒き散らしながら、両手をバタつかせて、前から倒れ込む。美紅の姿を横目に過ぎ去って行こうと思ったが、自然と脚が止まった。うつ伏せで倒れる美紅より、少し前方で立ち止まる。
 行ってしまえば俺の勝ちだけど、それでいいのか? 俺は全部不戦勝でいいのか? 想いは巡る。
 一体、俺は何をやったんだ。ただ怒りに身を任せて、先生を殴っただけじゃないか。後は先生と美紅が自分で決めて、自分の意思で動いた。俺は何もしていない。ただ流されて、今になって焦って勝負しているだけじゃあないか。その上、美紅が転んで不戦勝か?
 ――駄目だ。それじゃあ駄目だ!
 のそのそと立ち上がる美紅を、俺は待つ。既にゴールしているハズの俺が、まだこの場所に居る事に気付いた美紅は、不思議そうにする。
「峡太、なんで?」
「早く来いよぉ! みくぅ」
 出来る限りの笑顔を作り、大手を振って美紅を呼ぶ。美紅はすぐに頭を下げて駆け出した。目を合わせない美紅の、恥かしそうにしている事が伝わってくる。負けじと俺は、ゴールに向かって突き進む。
 ザッシュザッシュ……砂の削りこまれる音と、風の流れる音が交ざり合う。取り込まれる足を素早く抜き差しして駆けるけれど、後方からくる軽い足音が徐々に大きく聞こえる――美紅だ。背筋を伸ばし全力で押し進めるが、気持ちだけが前に出るだけで、体は砂に吸い込まれていく。ゴール手前で俺をかすめるように、美紅が過ぎ去った。
「こんちくしょう」
 心の奥底から叫んだ! その途端。想いが折れて、心と体ごと砂浜に持っていかれた。視界が急に止まり――瞬間。――目の前に、オレンジ色の砂浜が近づいてきた。胸に衝撃が走り、砂が口に中に入り込む。ごほごほと唾を垂らし、苦いジャリを吐き出した。
 負けた……美紅に負けたんでもない、先生に負けた訳でもない。何も決め切れない優柔不断な、俺自身に負けたんだ。
 何度も拳を砂浜に叩きつける。何度もクソッ、クソッと、こぼしていた。殴りつけ血が滲み出した手で体を起こすと、美紅が、美紅が居た。ゴールしているハズの美紅が、居た。
「早くこいよぉ、きょうたぁ」
 大手を振って、大口を開けて、からからと笑いながら俺を呼ぶ美紅が居た。
「美紅、何で?」
 思いのほか胸に受けた衝撃は激しくて、ヨレヨレとゴールに向かって俺は歩く。胸に手を当てながら、ゆっくりと確実に向かう。美紅は俺を見据えて、ゴールするまで見守る様子だった。スタート直前の、眉をひそめて真剣な眼差しを、俺に送っていた。
 そうして、倒れ込むようにゴールの線を……越えた。
 砂浜の上を転がりながら美紅に目をやると、今、静かに線を越える。俺が勝ったみたいだった。
「峡太ぁ……これが今のきもちぃ」
 遊びたくて、うずうずしている子猫のように上から覆い被さる美紅。走ったりコケたり泣いたり、砂まみれになったりと、ぐちゃぐちゃになって、美紅と抱き合った。
 いつの間にか――想いが逆転して――いた。
 もう二人、白い制服がドロドロの黄色に汚れきって、抱き合いながら転げ回る。笑い声をあげながら汗に塗れて、お互い強く抱きしめ合った。
 はあはあ……と、二人して息を切らし大の字に倒れ、胸を上下に揺らす。そうして俺は美紅に伝えた。
「明日、学校サボろっか?」
「どうして?」
「先生にありがとうの気持ちを伝えに、かな?」
 残りわずかな太陽の光が少しづつ消えてゆき、雲に隠れていた白い月が、ぼやけながら浮き上がっていく。流れていた曲は止まり、弛む波の中に沈んでゆく夕日を眺める。薄暗い夕焼けと夜空の間に、ただ佇みながら……
 俺と美紅。頬を撫でる、やわらかな風を感じていた。 

  1. 2006/09/03(日) 23:48:05|
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