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こちらは、主に素直でクールな女性の小説を置いております。おもいっきし過疎ってます
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路地裏の少女

 ふと、彼女は足を停めた。高校時代、よくたむろっていた路地を横切ったから、だった。
 変哲のない、ビルとビルの谷間の陰る路地裏。夜も深く、屋上のネオンが幽かに入り込み、アルコール臭が漂っている。志乃《しの》は、あの頃――高校時代の彼女の姿、そして囲んでいる友人たち、それら少女たちが、蜃気楼のように揺らいで見えた。
「あー、結構酔ったかな……」志乃はそう呟いて、懐かしさが込み上げるネオンに燈る看板を見上げた。
 くすみが取れない肌に無理矢理ファンデーションをのせて健康的に魅せていた面《かお》、滲むように半分以上、化粧が剥れ落ちていた。着馴れ始めたスーツ。磨り減ったローヒール。脱色をして荒れた髪質が一回りし、元の髪質が戻ってきた黒髪。
 会社の帰り道、志乃は友人に会った。高校時代、親友だった娘《こ》。久し振りに再会して近くのショットバーの入る、昔話に華が咲いた。注文の品はターキーとソルティドッグ、高校時分は缶のチューハイか梅酒しか知らなかったね、と志乃はクスリと吹いた。五年振りの友人茅《かや》との再会は時間を忘れさせ、終電近くになって志乃は急いで店を出る。「じゃあね、また今度」と手を振って茅とわかれた。
 志乃が足を停めた路地は、あの頃の思い出が詰まっていた。友人との再会で、志乃は普段気にもとめず通り過ぎていた路地に、足をとどめさせた。良いも悪いも纏わり付いてくる志乃にとって最高の思い出に、酔い痺《し》れる。次はいつこの場所で足を停めるかなー、と後頭部を掻いて、志乃は足早に歩を進めた。
 結局、終電には間に合わなかった志乃は、駅の階段に腰を下ろした。時刻は午前一時、走った勢いで適度に酔いが回る。うとうととして、志乃は瞼がずり落ちてくるのがわかった。周りにぽつぽつと人気があったが、気にせず横になった。上着からマルボロメンソールを取り出して火を点けた。二、三口煙を吸い込んで、眠った。
 上の辺りから、ぴちぴちぴちと鏡面タイルを液体が叩く音が響いた。志乃は目を覚ます。階段に転がる半分以上の残っていたマルボロメンソールが目に入って、知らず寝ていたことに気付いた。志乃は先ほどの異音の所在を突き止めようと、辺りをキョロキョロと見渡した。数段上に咽び返っている少女を見つける、志乃はとりあえず階段を駆け上がり、少女の傍に寄った。
「大丈夫?」
 深夜とも早朝とも取れる時刻、肌寒く吹き抜ける空っ風を受けて、少女は二の腕を擦った。二つに括った髪、ブリーチが効いて赤褐色に変色した髪質。キャミソールのうえにニットカットのカーデガンを羽織っている。無数のプリーツが入るミニスカート。シルバーのアンクレット、ミュール、指の付け根が腫れあがっている。
 無意識に上着を少女に掛けた志乃は、見ず知らずの娘の背中を擦るあたしって全然変わってないよね、と自嘲した。高校時代、姉さん肌だった志乃は面倒見が良く、仲間内ではリーダー的存在だった。志乃は、褐色の肌と頬こけた面や痩せ細っている少女に、あの頃の自分達を重ねる。志乃は一見して少女から幼さが伝わった。
「中学生? だよね」
 少女は首を横に振る。眼を垂らして、縋るような小声で「小五」と呟いた。想像以上に幼い少女に志乃は呆気に取られ、擦る手が止まる。次いで勝手に口から質問が飛び出す。
「親は? この時間に、こんな所に居て怒られない?」
「怒りますけど。だからといってとめないし、メールしとけばそんなにも怒んないし」
 志乃は眉を顰めた。あの頃の経験から関わり合いになると面倒なことになる、と志乃は躊躇した。しかし、少女の屈託のない煤けた面持ちが、志乃の性格を露呈させた。
「あたしは志乃」志乃は足を突っ込んだ感覚に囚われる。少女は掠れきった声色で呟く、「咲です」
「あたしも高校の時、そんな感じだったのよね」そういって志乃は、すぐに発した言葉を反芻してあることに気が付いた。ぴちぴちと少女が嘔吐したそれ、これってつわりなんじゃないの? と志乃はあの頃の自分の姿を咲に重ねる。そうだ、あの頃のあたしたちって大体デキちゃってたから、と志乃は確信めいた。当時、日々の睡眠不足、不摂生、クスリ等々あったが、思いの他頑丈に出来ていた自分を思い返していた。
「咲ちゃん、その吐き気って風邪、病気? それともつわり?」
 咲は首を振るだけだった。その姿が、あの頃の親友の姿とだぶった。泣きもせず、ただ身体を小刻みに震えさせていた親友と同じだった。志乃はぐいと頬を寄せ、咲と目を合わせた。
「ゴムしてる? デキるよ、普通に」
「してないです、志乃さん」
「生理は?」
「きてます。友達はまだだけど……」
 志乃は背中を擦り始め、咲は軽く嗚咽した。志乃は咲に力強く手を握られ、状況を説明された。それを聞いた志乃は、聞かなければよかったのかも、と暫らく押し黙った。
 咲は彼氏と三ヶ月ほど付き合っていて、現在も進行中だった。ほぼ毎日逢っている上に、間違いなくセックスをしている。彼氏は生で挿入し、確実に中で出す。咲がゴムを付けてと哀願しようと思ったが、怒鳴られそうで捨てられそうで怖ろしいと話した。さらに問いつめてみると、咲はさっきまで一緒にいて車の中でフェラをした、という。咲の動言では愛情だと仄めかしていたが、性の捌け口としか思えないような扱い。咲からすれば、彼氏とは随分と歳が離れていて三十近い。志乃には、この歳の差が決定的におもえた。
 志乃は深い溜め息を吐いて、頭を掻いた。学校をサボり、遊び呆け、家にも帰らず、路地にたむろしていた高校時代の繰り返しになっているように、志乃は感じ取っていた。彼氏との話しや歳の離れ具合を想像するに、咲はまともに相手にされていない、と感づいた。志乃はその面倒見の良い性格が顔を出し、思わず口に出していた。
「うーん、先にいっとくけど、それ付き合ってないからね。セフレかもしれないど、そいつ咲ちゃんのことセフレとも思ってないし、咲ちゃんお金貰ってないんでしょ? どうせ、なんともおもってないよ。彼氏から電話掛かってきてコッチが無視したら、キッチリ掛かってこなくなるだけだから」
「そうなのかな」
 咲は瞳を曇らせて、ぐったりと頭を垂れた。咲の肩を抱き様子を窺うと、唇を噛み締めて半ば諦めのような表情を浮かべていた。咲はぞんざいな扱いを受けていると、志乃は否定でもなく肯定でもなく、ただ素直に意見を述べた。
「そんなもんよ大人って。あたしも大人になったけど、あの頃はあんな大人になりたくなかったなー。でもね、大人になんないと、まともに相手にもされないのよ。とりあえず、咲ちゃん、あたしの家にきなよ。このままじゃあ、どうにもなんないから」
「いいの? 志乃さん」
 咲は、翳りのある表情から花が咲いたような笑顔になる。
「子供がデキたか、デキてないのか、判らない状態で親には言いづらいでしょ。そのあたりのことわからないでもないし、高校の時そうだったから。でもね、その歳でデキちゃうと、犯罪なのよ。簡易の検査薬で調べてからでないと、そのクソ彼氏には逃げられちゃうし、親の出方もあるから……」
 そう告げると、よくわかったようなわからないような表情で、咲は頷いた。
「じゃあ、行こうか」志乃は立ち上がる。咲は志乃を見上げ、小首を傾げる。「どこに行くんですか? 志乃さん」志乃の自宅に帰るにしても始発の時間には早すぎた、咲は覗き込むようにして窺う。その咲の手を取って立たせ、強引に咲の腕を引っ張り、志乃は勢いよく歩き出した。
「ドラッグストアー。検査薬買ってからご飯食べるよ、小腹減ってんだ」
「あっハイ」
 二人の歩幅が合わず、志乃は咲を引きずるような格好で商店街へと向かった。
「咲ちゃーん、これとこれと、これ、ね」
「いい値段しますよ、志乃さん。大丈夫ですか」
「いいのよ、だって咲ちゃんの化粧へたくそ。誰に教わったんだか。あたしがちゃんとしてあげるから。そんなに高いものでもないよ、全部で五千円。そんなもんでしょ?」
 二十四時間営業のドラッグストアーに妊娠検査薬を買いに来た。ついでに、志乃は化粧を買い揃え始める。咲が手に抱えている買い物籠へ無造作に化粧品を放り込んでいく。足早に棚の商品を放り投げ、志乃は歩く。咲は追いかけている。志乃は咲に籠をレジカウンターに置くように指示をして、志乃は財布から万札を取り出した。
 店から出た二人。時刻は午前四時。早朝から営業している立ち食い蕎麦屋に入り、食事を済ませる。咲が蕎麦を啜っていると鼻水が垂れてきた。それを志乃はブラウスの裾で拭いてやる。
 二人は始発の時刻までのんびりと時間を過ごしていた。
 家に着くと咲を連れてシャワーを浴びに浴室へ。その前に、志乃は妊娠の安否が気になり、袋から簡易検査薬を取り出した。そして志乃は脱衣場で咲の裸体をみて唖然とした。下腹部、特に脇腹の辺りに痣があった。真っ白の咲の肌に沈み込むように、蒼白く斑点がひろがっている。志乃は驚いて、言葉を選びながら咲に聞いた。
「こけたの?」そういいながら志乃は、彼氏に殴られたものだと推測する。
「不器用だから……なんにもない所で、よくこけるんです」
「へー」
 志乃は、へらへらと砕けた笑みを浮かべる咲に一言告げて浴室のガラス戸を開いた「でも、そこは、打たないよね……」咲は無言で浴室へと入った。
「はい、コレ」
 ユニットバスに腰掛けた志乃は、スティック状の簡易検査薬を咲に手渡した。咲は使用方法がわからない、簡易検査薬を掴んだままその場で立ち尽くした。志乃はまーそうだわな、と咲にしゃがむように指示をして、ちょうどお尻の少し前方に簡易検査薬を置かせた。
「咲ちゃん、そこの先の窪みにおしっこが掛かるように、して」
「ここですか?」「そうそう」
 ステック状の検査薬の先端に楕円形の窪みがあり、そこへ小水を掛けると変色し表示する仕組みになっている。決して100%ではないが、かなり精度の高さがあると、志乃は過去の経験から知っている。高校時代の親友茅も、同じ簡易検査薬を試している。
 茅と二人、妊娠を確認したあの時と同じ、嫌な空気が浴室に充満していた。志乃は掛け終わった簡易検査薬を脱衣場の流しの上に置いて、後で確認することにした。とりあえず、志乃はこの鬱積した空気感を吹き飛ばすように、少々はしゃいで咲の身体にシャワーを浴びせた。咲も志乃と目を合わさないようにして、「志乃さーん、もう」とはしゃぐ。うわべの、浮ついた演技が続いた。志乃は神妙な面を咲へとくれ、ガラス戸を押す。流しの端に置いた簡易検査薬を抓み、薄目でそれを流しみた。
 当たりだった。いや、志乃はハズレだとおもった。咲に出会ったことすらもハズレだと、も。志乃の眼前にくり出された検査薬の先端は、しっかりとプラスの表示が。陽性、子供がデキたのだ、志乃は眩暈に見舞われた。白く霞む視界の中で、志乃はうらめしく振り向く。咲がガラス戸に手を掛け立っていた。およそ表情のない咲の面に、志乃は苛立つ。
「当たり、今日学校行くの」
 志乃は、脳裏ではハズレだろ、と反芻して咲に聞く。自然と志乃の表情は強張っていた。
「考えてはいません。どっちでもいいです」
 と、志乃の暗澹とした表情を読み取ったのか? 咲は志乃に委ねた。
「そ。とりあえず、あたしは有給取るから、咲ちゃんは出掛ける準備をして」
「何も準備するもの無いです」
 咲は裸のまま呟いた。バスタオルを巻いて咲は、志乃と向かい合っていた。「付いてきて」そういって、志乃は床に転がっている上着から携帯電話と取り出して、リビングに歩き出した。咲は拭き切っていない髪を垂らしながら、下を向いて志乃の後ろに付いていく。携帯電話を耳にあて、志乃は同期に有給を知らせる。
「そうそう、会社始まってからもう一度連絡入れるから、上司に有給だっていっといて」
 時刻は午前七時を回り、起床している同期に、理由はともかく上司への有給伝達を頼んでいた。その間、箪笥の中からショーツとブラを取り出し、咲と目を合わさずに衣類を手渡す。テキパキとした動作でティーシャツとジーンズそれにブラウスを渡し、志乃は咲に手振りで着替えるように促した。
 続いて志乃は高校時代の親友、偶然道端で出合った茅に電話を掛ける。咲は口ごもりながら、篭る声色で「志乃さん……」と発した。咲の表情は蒼白に沈んでいた。
「茅? 朝早くゴメン。あの先生居る場所何処だった? そうそう、ボリ倒してる先生。……あーソコソコ、ありがと、近々また電話する、んじゃあね」
 志乃は携帯電話を器用に肩で押さえ、茅と話しながら着替える。ブラをはめショーツを穿き、ダークブラウンのポロシャツに黒ジーンズ。身支度を整え、志乃と咲は家を出た。


 志乃は考えていた。どうするべきか、と。電車に乗った二人は、志乃の手引きで隣町へと向かった。志乃はある場所に向かった。学生時代、いやがおうでも世話にならざるおえなかった先生のいる場所。いままで全く忘れ去っていた先生にまた世話になる、と志乃は寒気が走った。咲は大人しく座席に座っていた。
 複雑な気分だった。志乃はこのお節介な性格に嫌気が差すが、何もせず見捨てる人間に腹立だしい思いもある。あの頃は何も考えず、素直に生きていられたな。幸せなんかなー不幸なんでしょうかねー、とこの矛盾を抱えて含み笑う。志乃は、窓の外を呆然と眺めていた咲の頭を撫でた。「ん?」と咲は不思議な面持ちを浮かべた。
「どうせ、この娘捨てて後で後悔するより、今巻き込まれた方がまだ良いわな」と、志乃は聞こえないほどの小声で呟いた。
 二人を乗せた電車は目的地に到着した。時刻は午前九時、陽がのぼる。蝉が鳴き、蒸し暑さが漂い始めていた。二人の額にじっとりと汗が噴きはじめる。そして郊外に差し掛かった。住宅街の合間にある、錆び付いて緑掛かった古ぼけたアパートに志乃は入っていく。遅れて咲が。低い天井に昼白色の蛍光灯が列をなす、くすんだ小窓から弱々しく斜陽している。志乃は咲の手を取って、その中を進む。煤けて黒呆けた木製の扉をノックした。
「先生~います? 志乃です」
 何も返答はなかったが、擦れる音がして鍵が解除された。開かれた先に男性が立っている、黄ばんだ白衣を着た中年の男性。中途半端の伸びた前髪、髭が無造作に生い茂っている。男性は顎をなじりながら目を細め、「ああ、志乃ちゃんか……」と頷いた。志乃は深々と一礼した。その節はどうもお世話になりました、と志乃は真摯になる。直後志乃の表情が和む。
「どうですかー先生、儲かってます? あんまり繁盛しても嬉しくないですけどねぇ」
 そう志乃が聞くと、先生と呼ばれる男性は二人を中にあげ、跨ぐようにしてスチール椅子に座る。背もたれを前にあてがって肘を掛けた。
「もうこないと思っていたよ。もう何年前だっけ? 志乃ちゃんも面倒看たよね。あれからくだらない男にはつかまってないの? まー堕胎《おろ》せっていう男が一概に駄目だとはいわないけどさー、ここにくる娘はどうしようもない男に引っ掛かった女の子ばっかりだもんなぁ」
「そりゃそうでしょ、こんな環境の悪い所にくる娘なんて、普通じゃないですよ。しかも動物病院だし」
「まあな――で、そこにいる女の子が、その普通じゃない状態の娘ってこと?」
 不意に自分の話題になった咲は志乃へ視線を送り、先生に向かってへらへらと苦笑した。
 室内は静寂としている。二台のパイプベッドに平らな敷布団に平な掛け布団、見るからに煎餅状態。白だったとおもわれる壁紙は、煙草のヤニが黄土色に貼り付いていた。取ってつけたようなソファーにOA机。奥の部屋につづく扉は、硬く閉ざされていた。
「ちょっといいですか、先生」志乃は咲に「ちょっと待っててね」と声を掛けて、先生を連れて奥の部屋に入っていった。
 奥の部屋は先ほどの部屋と違い、広く抜けている。ずらりと器具が並んでいる。中央に脚を固定する器具が備え付けられたベッドに似た椅子。久方振りにそれらをみて、志乃はあの頃この椅子に座ったことを思い出した。胸が締まる、きゅうきゅうと痛い。志乃は、咲が小学生の為すぐにでも記憶から抹消されてしまえばいい、そう強く願った。志乃の隣にいる先生に話しかける、幾らですか、と。
「堕胎す代金? そうだねー志乃ちゃんには少し前、かなりの量、斡旋して貰ったし、今回は三十でいいよ。五十はオマケしとく。それか、額面の八十を志乃ちゃんで払ってもらうってのも、アリだけど」
「ずいぶんドンブリ勘定なんですね」そういって志乃はつづける。「あたしの身体? 先生……あたしと十六回もセックスしたいんですかー、まー途轍もなく気持ち良いからしょうがないけど」
「結構いい値取るよね。てっきり俺は、二十七回はエッチできるとおもったのに」
「ばか。学生当時は一回十万は取ってたんですよ、プレゼントも貰って、それでも客はくるわくるわで。学生の強味ってヤツですか?」
「テクニックもあるんじゃないの? そんなにヤってたんだから、リピーターばっかりだったんだろ」
 志乃は唸るようにして考え、
「そうでした。新規はほとんど居なかったような気がします」
 と、冗談めいてクスリと微笑む。こんな話し、冗談でもいわないと気が滅入るわ。志乃は自分の当事者ではない位置と、昨日拾った赤の他人の咲の為に何処までするのだと、電車の中で腹を決めたが割り切れないでいた。
「とりあえずお金は後でいいから。彼女、一応デキてるか検査しとくよ」
「すみません、後のことお願いします。名前は咲っていいます」
「咲ちゃんね、了解。堕胎すか堕胎さないか一度連絡頂戴。俺も検査の結果連絡するから」
 先生は白衣の胸ポケットに刺さっているボールペンを除け、携帯電話を取り出した。目でコンタクトを取り、先生は志乃と連絡先を交換した。志乃は足早に、ソファーでうたたねをしている咲に駆け寄った。
「咲ちゃん、彼氏の居場所教えて。用事があっていってくるから。電話はいらない、どうせあたしの携帯からだと繋がらないからね」
 咲から住所を聞いて、志乃は早々に引き上げた。叩きつけるように閉めた木製の戸は、ギシギシと軋んでいた。その衝撃に咲は肩をびくつかせ、ソファーへ身体を沈ませた。
 
 テーブルに頬を押し付けるような格好で、志乃は寝息を立てていた。時刻は午後二時になっていた。彼氏の自宅付近のファミリーレストランに腰を落ち着かせ、昼食を取った。彼氏が帰宅するまで時間が有り余っていた為、志乃は昼食に付属していたフリードリンクで時間を潰していた。しかし、昨夜から一睡もしていない志乃にとってこの彼氏の帰宅までの期間、見ず知らずの人間の家に乗り込もうとしている志乃の緊張が常に付き纏い、永遠とも思える時間に我慢できず朽ちるように眠りこけていた。幸い昼食時のフル稼働の時間は過ぎ、ファミリーレストランとあって、閑散とした中で店員に声を掛けられもせず、熟睡することができた。夕日が傾き始めた午後六時半に満員状態になった店内、店員に声を掛けられ、料金を支払ってとりあえず志乃は店を出ることにした。
 彼氏の住むマンションの駐車場。持てあました時間を潰すように志乃は携帯電話を手に取った。折りたたみ式の携帯電話を開けるとヴァイブレーションを起こした。志乃は覗き込む、液晶盤に着信二件、メールが一件の表示があった。
「結果発表」
 花壇に腰を引っ掛けて、志乃は息をのんだ。ここまできて無駄足になるのもアレだけど、と一人ごちた志乃は、間違いであることを切に祈った。薄っすらと暗くなってきているこの周辺に、液晶盤から青白くバックライトが放たれた。志乃の面を照らす。
 案の定、といいかけた言葉を呑み込んで、志乃は携帯電話を閉じた。
 志乃は立ち上がり、マンションを見上げる。街頭の明かりが志乃の視界を遮る。すると、なだらかなカーブを描いてするりと駐車場へ進入する車とすれ違った。真っ白な旧型のセルシオ、フルスモーク、フルエアロ。高級セダンとは到底思えない猥雑な爆音を、マフラーから垂れ流していた。その時点で志乃はピンときた、高校時代の経験からカンが働いた。咲ちゃんがいってたボケはコイツだ、と。流しみて、彼氏と思しき気配を探る。志乃は背筋に冷え固まった緊張めいたものが走った。
「アイツだ。咲ちゃんがいってた通り、アホ面してる」
 決して咲はアホ面とはいっていないが、志乃は咲が教えた通りの外観を確認して、背後から彼氏に近づいた。その間、準備していた台詞を繰り返し唱えた。志乃は背後に立つ、彼氏の足取りは停止した。
「アンタ警察に捕まるわよ、何とかしてあげるから話、聞きな」
「意味わからん」
 振り向いた彼氏は志乃を睨みつける。志乃は彼氏が逃げ出さないように、間髪いれずに捲くし立てた。
「アンタの不特定多数の彼女の内、一人が妊娠したのよ。誰が、かなんて見覚えがあり過ぎてわかんないだろうケド。咲ちゃん、知ってるよね? アンタの彼女よね? そうよね。まーアンタの彼女でいいから、その娘がデキたのよ。小学生が妊娠したってなったらさーハッキリいって新聞沙汰なのよ、マジで。で、ね、あたしが間に入って、何とかしてやるっていってんのよ。アンタはどうでもいいけど、咲ちゃんが可哀相だからね」
「何いって――」口ごもる彼氏。震える唇を抑えようと、彼氏は奥歯を噛んだ。引き攣った頬、ピクピクと片方の頬が吊りあがる。忙しなく眼球を左右する彼氏をみて、志乃は落ち着き払ったように呟いた。
「闇医者に知り合い、いる?」
 思いも寄らない志乃の言葉に、彼氏は虚をつかれたように硬直する。首を何度も横に振った。
「そうよね、アンタみたいのにアフターケアを考える人間なんている訳ないよね。つーか、それを考える人間が小学生抱く訳ないわな。どうすんの、アンタが病院手配すんの? 普通の産婦人科に連れてったら一発で警察に通報されるわよ」
 無言だった。彼氏は硬直したまま、面を真っ青にして立ち尽くした。
「で、責任取って五十万出してね」
 志乃は据えた眼差しで一瞥くれて、携帯電話を耳にあてる。苛立ちながら呼び出し音を聞く志乃は、軽蔑の視線を彼氏に叩きつけていた。彼氏は五十万はちょっと、と掠れた声を捻り出すのが精一杯だった。繋がった相手は、表向き動物病院の先生。志乃は先生に堕胎すか堕胎さないか、彼氏から確認を取るから待ってと話した。志乃は携帯電話のマイクを手で塞ぎ、彼氏に詰め寄る。
「どうすんの? 堕胎すの、堕胎さないの。今、先生にお願いするからどっちかに決めて!」
 半ば脅迫するように、志乃は怒鳴った。即答を突き出された彼氏は追い詰められるように、堕胎して下さいお願いします、と肩を落とした。しかし志乃は、まだ堕胎すと先生に告げない。片手でマイクの部分を握り締め、片方の手をぶっきらぼうに出した。
「じゃ、免許書出して。この場で五十万なんて金、出ないのわかってるから。振り込み確認したら送り返すわ。三日以内に振り込んでね、逃げてもいいけど免許書で身元割れてるから、善意の第三者として普通の病院連れて行ってもいいんだよ――」コッチだってねリスク負ってんだ、親が出てきたらコッチだって問われるのよ! 危ない橋を渡ってるんだ、と志乃は思わず言葉が出掛かった。足元をみせてはいけない、あくまでもコチラ側はノーリスクで、善意でやっていると思わせなければ足元を掬われる恐れがあると、志乃は出掛かったそれを喉の奥へとねじ込んだ。
 しぶしぶ諦めの表情を漂わせ、彼氏は財布の中から運転免許証を取り出した。志乃はひったくるように、それを奪い取る。通話状態の状態のまま、志乃は罵声を浴びせた。
「なに出し渋ってるのよ、ボケ。新車のセルシオも買えない大人の出来損ないが、調子こいてタダで女喰ってんじゃねーよ。小学生とセックスしようとしたら、一回五、六万が相場。毎日喰ってたんだから、十分、元取ったんでしょーが。まだ援交で金払ってる男の方がアンタよりマシだわ。その場で金で解決してるし、一銭も払ってないアンタよりよっぽどね。しかもそいつらは現行のセルシオ乗ってるわよ、とーぜん新車の」
 そういい切って、志乃は息を切らせた。直後、志乃は自嘲する。中間業者の、ブローカー紛いなことをして上乗せ請求している自分は彼氏と同様――低次元だと、下唇を噛み締めた。
 言い訳や逃げ道だったらいくらでもある。と志乃は思い窮まった。リスクの褒賞だったり今日の仕事内容としての実質的な人件費だったり、小学生と付き合った代償としての手切れ金と、てきとうな理由をいくらでも挙げられた。しかし志乃は、涙腺がしびれをきらせて涙が溢れてくるのを堪えた。そうしたら、彼氏に生活水準のギリギリ、四百万ぐらいを請求すれば良かったのだ。それが出来なかったのは、高校時代に男を誘惑して金をせしめて、誘発を誘い、この市場を確立させた自分にも責任があると。この彼氏も自分たちが作り上げた男達の一人ではないのか、と。志乃はパラドックスに陥った。
 まばたきをせず、志乃は突き刺すような視線を彼氏に向ける。押さえていたマイクから手を外し、志乃は「堕胎して」と弱々しい声色で呟いた。
 志乃は財布から銀行のクレジットカードを取り出し、吐き捨てるように振込先を彼氏に伝えた。志乃は羞恥心に近い感情を剥き出しにして、逃げるように駆け出した。
 電車に乗った志乃は茅に電話を掛けた。この後お酒を呑もうと誘った。明日からも問題が山積みだが、とにかく一呼吸を置きたかった。急に老け込んだような志乃の面が、窓に映っていた。
 待ち合わせの居酒屋に向かう途中、志乃は足を止めた。ネオンが幽かに入り込む路地裏を見据えた。時刻は九時。制服姿の学生が数人たむろしている。それを眺めると、良いも悪いも最高の思い出が志乃の胎《なか》で翳りをみせはじめていると、溜め息を吐いた。

  1. 2007/05/01(火) 02:14:54|
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